今度はオリンピックの開会式担当であった小林賢太郎氏が解任された。
若い頃のホロコーストを揶揄するようなネタが問題視され、開会式前日の解任となった。
そもそも大会組織員会の内部には、学歴もある優秀な人材が大勢いるであろうし、また広告代理店の電通でも然りである。
にも拘わらず、国立競技場のデザインやエンブレムの盗作問題にはじまり、森委員長の発言、そして開会式直前までこういった問題が発生する(正確にはバレる)のはなぜなのだろうか。
これは私たちの批判的思考の欠如が本質的な問題ではないか。
この批判的思考(クリエイティブシンキング)は、日本の教育現場ではほとんど取り上げられることはない。
日本の学校教育の現状について、日本を含む48の国と地域(先進国とそれに準ずる国々)を対象としたOECD(経済協力開発機構)が実施している「国際教員指導環境調査」(TALIS)」の第3回調査結果(2018年)を見てみよう。
TALISの質問項目「批判的に考える必要がある課題を与える」
解答・・・・自らの授業において、
「しばしば」行っている
「いつも」行うと答えている
→日本の小学校教員が11.6%
→日本の中学校教員が12.6%
→調査国全体の小学校教員が51.8%。
→調査国全体の中学校教員が61.0%。
ちなみに日本以外で割合が低い国でも約30%以上はあり、日本は圧倒的最下位である。
この調査は教員の自己申告であるため、「やっているつもり」も含まれている。
実際、そうした授業を行っているとしている学校のHPは多いが、在校生に話を聞くと、実際にはまったく行われていないケースも多い。
つまり、日本の教育は、諸外国と比較し、極端に「暗記」に偏っていることになり、「疑問」を持つことより、ひとつの解答に全員でたどり着くことを目的としている。
その結果、知識は豊富であるが、目の前の常識や当たり前に「疑問」を持つ、もしくは問題を自ら見つけ出し論理的に思考し、解決する能力が本質的に欠如していくのではないだろうか。
確かに知識は大切であり、それが豊富であることは有益である。
しかし、それは現状を踏襲し、変化を嫌う気質になってしまう。
授業中に「私語禁止」というルールが日本にはある。
なにをもって私語というかの定義は大切だが、教師のもと「生徒は従うもの」という明治以来の上意下達的な指導法が根底にあり、生徒からの「質問」も許可制、ましてや「疑問」を持てば、取り方によっては授業妨害となる。
しかし、クリティカルシンキングを育てる授業とは「疑問」をベースに「議論」することであり、そこには「仮説」(自分の考え)があり、それを伝えるコミュケーション能力が求められる。
上記のOECDの数値は、残念ながら高校になるとさらに低下する。
「疑問」や「議論」は入試に役立たず、さらには教員自体もそうした教育を受けた人は、ほぼほぼ皆無であり、したがって経験則に従い「従来の授業」、つまり「疑問」を持たず、ひたすら「暗記」が続くのである。
今日ある生徒がいっていた。
塾でも学校でも、夏休みは15時間勉強しろっていうんです
「疑問」なき言葉とはこうしたことであろう。
「15時間」と言う前に、何を根拠に「15」とういう数字が生まれ、さらにはその「15」の内訳のトレーニングメニューを指示してこそプロフェッショナルな指導者であろう。
多くの場合、「疑問」なき指導とは「根性論」「精神論」に陥りがちだ。
これは完全な「思考停止」の発言であろう。
社会の大人はよく言う。
今の若い人は自分で考えない、行動しない
もし、それが事実であれば、その本質的理由が、実は大人が作り出していることに「疑問」をもつべきではないか。
かなり多くの生徒は、そうした大人の論理に「疑問」を持つし、今回のオリンピックのような「大人の在り方」にも「疑問」を持ち、できることであれば、そんな大人にはなりたくないと考え、大人は信用できないものになる。
今回のオリンピック、もっと大きく言えばコロナ禍とは、そうした日本社会の「疑問のなさ」を露呈したのではないだろうか。
その有様を、未来にどう生かしていくか、それは大人の責任でもあり、そこに今度こそ本質的な「疑問」がなければ、日本の未来は本当に暗いものになってしまう。
そんなことは言われなくてもわかっているという声が大人から聞こえてきそうだが、ならばもっと「疑問」を持てるような教育が行われるように大人がまず「疑問」をもってほしいものである。
議論するコミュケーション能力、疑問を持つ批判的思考、仮説を説明する論理的思考、こうしたものは知識の上にあるのではなく、知識と並立するものである、その根底に常に「疑問」がなければならない。