私が癌になっても | これでも元私立高校教員

これでも元私立高校教員

30年以上の教員指導を通じて、未来を担う子供たち、また大人の思考などをテーマに書き綴っています。
日本史と小論文の塾を主宰し、小学生から大学生、院生、保護者の指導をしています。

最近、「インクルーシブ」という言葉をよく耳にする。

一般的には「包括的」というような意味になるが、これをSDGs的に意訳すれば「誰も取り残さない」といったことになる。

例えば、「インクルーシブ教育」などというが、世界中で質の高い教育がすべてのひとが受けることができる、そうした教育の実現ということになる。

 

この考えの実現はとても大切であり、小論文講座の背景的なテーマとして、取り上げることが多い。

もちろん、正答があるわけではないので、そこに至る「思考の過程」が重要視される。

 

さて、この「インクルーシブ」を医療に置き換えると、日本の医療とは世界的に見ても十分に「インクルーシブ」である。

もちろんこれは医療関係者の努力に負うところが大きいが、国民皆保険制度など法的にも整備されている。

例えば、私が癌になっても、普通に治療を受けることができるし、さらに収入が少なければそれに応じて治療費の補助も行われる。

さらには、その治療法も十分に信頼できる最先端であり、精神的なケアを整っている。

 

さらに治療において医療者による「アセスメント」の重要性もいうまでもない。

「アセスメント」というと、環境調査の意味を思い浮かべる人も多いと思うが、医療的には以下のような行為をさす。

 

利用者の課題分析をする為に、何を求めているのかを正しく知るために行われる評価や査定

 

これを大きく意訳すれば、ようは「寄り添う」ことであろう。

 

これは教育者にも言えることだが、医療者には控えめに言っても傲慢な人、無礼な人が少なくない。

とてもじゃないが、患者の気持ちや立場になって「アセスメント」しているとは思えない場面にしばしば出くわす。

 

よく私たちは「共感」という言葉を使うが、この共有(エンパシー)とは自然に得られるものではない。

自分と違う価値観や理念を持っている人が何を考えるかを想像する力」であり、自然に備わるものではない。

私は、これを信州大学の先生のFacebookから学び、小論文講座で高校生や中学生に「共感」の意味を考えてもらう。

 

話が脱線しているように思われるかもしれないが、このように思考していくことが「考える力」であり、本質にアプローチすることではないだろうか。

 

「インクルーシブ」「アセスメント」「エンパシー」・・・・。

こうした一つ一つの考え方は、その本質において密接なかかわりを持ち、その思考の過程で多くの知識を調べ学ぶことになる。

私は、教育がこのような形で行われるになることを日々願いながら、いま自分の目の前にいる生徒に、すこしでも画一的な暗記ばかりでなく、考えること、つまり批判的思考によって当たり前や常識に「疑問」を学びをしてもらっている。

むろん、学校の先生や保護者の方からは、

 

「知識が先になかったら考えることはできない」

「そんなことは受験に役立たない」

「それよりも偏差値や学歴に直結しなければ意味がない」

 

そんなお叱りを受けるし、そうしたお考えも多様性のひとつであろう。

でも、私は自分が癌になれば、こんなことを考えながら治療と向き合いたいし、そうした学びを高校生は暗記の何倍も求めていることを知っている。

 

上記の信州大学の先生のFacebookにはこのようにも書かれていた。

 

目の前の人が望んでいること、夢見ることは何か?

 

そんなことを「共感」できる人間を私は育てていきたい。