政治家の信念や責任 | これでも元私立高校教員

これでも元私立高校教員

30年以上の教員指導を通じて、未来を担う子供たち、また大人の思考などをテーマに書き綴っています。
日本史と小論文の塾を主宰し、小学生から大学生、院生、保護者の指導をしています。

日露戦争終結時、外相の小村寿太郎がポーツマス条約を調印し帰国したとき、彼は国賊扱いだった。

多大な犠牲を払いながらも、賠償金を獲得することなく帰国したからである。

 

民衆は怒り、いわゆる日比谷焼き討ち事件が起こる。

小村寿太郎の外相公邸は焼かれ、家族の安否すら明らかではなく、新橋駅では、

 

「速やかに切腹せよ」

「日本に帰るよりロシアに帰れ」

 

などという散々な罵声を浴びせられた小村を出迎えた首相の桂太郎と海相の山本権兵衛は、小柄な小村を両脇を挟むようして歩き、テロに遭えば共倒れの覚悟で官邸まで彼を護衛している。

 

そんな小村寿太郎は、ポーツマス会議での責任について生涯一言も弁明することなく、全責任を信念をもって負った。

国民の多数が反対、つまり世論に逆らいながらもその信念をもって外交に取り組んだのである。

 

ポーツマス会議後に、故郷の宮崎に帰郷した際、県立宮崎中学校で講演をする機会があった。

聴衆は、ポーツマス会議などの話を期待したが、彼の話は、こんな一言であった。

 

「諸君は正直であれ。正直ということは何より大切である」

 

政治や外交をするうえで、小村寿太郎は権謀術数ではなく、「正直」であると考えていたのある。

これはのちに1分間訓話として、多くの聴衆の心に深く残ったとされる。

 

小村寿太郎はポーツマス会議から6年後、精魂尽き果てたように亡くなった。

56歳であった。

亡父からの借金を抱え、40歳までは外務省のなかでも不遇であり、その活躍期は15年足らずにすぎないが、明治政府は、その功績に対し、宮関県出身にもかかわらず侯爵の爵位を贈り、その労に報いた。

これは日露戦争時の内閣の大臣の中では、総理大臣の桂太郎の公爵を除けば、最大級の評価である。

 

いま、日本はコロナ禍のなかで大きな決断を迫られている。

オリンピックである。

 

私は個人的にはオリンピック開催は反対であるが、もし開催するのであれば、総理大臣には小村寿太郎のごとくの信念や責任をもって開催してもらいたい。

緊急事態宣言を発し、休業要請をする事は政治家として政治生命を賭して行うことである。

様々な商売をされている方の人生を左右する決断を政治家が行いたいのであれば、その後の政治生命が絶たれても構わないといった覚悟を持って行うべきである。


日ソ国交を回復した鳩山一郎、日米安保条約を改訂した岸信介、条約改正を行った陸奥宗光、ワシントン条約を調印した加藤友三郎、終戦を実現した鈴木貫太郎など、その政策に賛否はあろうとも、みな信念の政治家である。

 

日本の大小の政治家に、そういった信念や背金を求む。

それこそが、真の政治家ではないだろうか。