昨日、昨年の9月から執筆をスタートした、4月に学研から出版する日本史の参考書の第1稿が完成した。
長年の日本史の「勉強法」の成果をまとめたもので、完成した瞬間はなんとも感無量であった。
このような出版をさせていただくなんて6年前は夢にも思っていなかったし、出版程度は世の中ではよくあることなのかもしれないが、夢がひとつ実現した。
このあとは、他社から「思考力のために日本史問題集」の出版、さらには新しい「歴史から考える力を育てる」(仮)の提案を出版社にしていく。
子どもの頃から、ずっと夢があった。
それは、ずうずうしくも司馬遼太郎のような「作家」になりたいと思っていた。
しかし、その夢はいつしか夢になり、夢に向けての努力などしなくなっていた。
11年前にこのブログをはじめ、勝手な思ったことを自由に書いてきた。
それは愚痴であり、嘆きであり、喜びであり、感動であり、感謝でもあり、特に目的があったわけではなく、自分の思っていたことを書き綴ってきた。
そうしているうちに、たくさんたくさん不思議なことが起こるようになった。
確かに、学校教員としては失敗に終わったが、自分の世界が思わぬところで広がり、教員をしたままであったら知り合うはずもない方に出会い、あり得ないような経験もできるようになった。
昨日も、東京外国大学大学の名誉教授の先生が塾まで来ていただき、教育に関して談義を2時間もさせていただいた。
高校の指導者が思い込んでいる推薦入試の小論文や面接の「常識」、学校の授業の「常識」をふたりで笑い飛ばす、そんな愉快な時間だった。
むろん、悪口ではない。
楽しかった。
その日々のなかで自分の夢を実現するために何かをしようと想い、どちらかといえばうまくいかない期間も長かったが、それでも「自分らしく生きる」とは何か、「自分の居場所はどこか」という問いにずっと向き合って努力をした。
私の亡父は、何冊かの学術書を書き、多数の雑誌や新聞に原稿を依頼されていた。
スイスに住む姉は、もうすでに何冊もエッセイを出版し、さらにアクティブに活動をしている。
広島で大学教員をしている弟も学術書を出している。
参考書ではあるが、ようやく私も夢の一歩を踏み出せた。
夢を叶えることは、実は自分次第であり、それが困難か容易かの問題ではない。
そのための努力とは結構楽しく、それほど苦ではない。
ようは、夢を信じること、夢を大切にすればよい。
あと2週間で56歳になる。
子どものころ、明治生まれの祖母から、
「お前は大器晩成だね」
などと言われ、小さいながら最初に覚えた四字熟語は大器晩成だった。
夢の基準なんて人それぞれで、その内容だって、そもそも人が推し量れるものではなく、おおよそは変であり、だからこそ夢である。
そんな自分なりの夢のある人生は、結構楽しくなんとも「自分らしく生きる」ことができるものである。
画一的に、みんなで同じように、横並びに、「常識」に疑いを持たず生きていくのは、私には結構な苦痛で、最近は「自由」になれた。
そうすると夢は叶うようになる。
これこそが真理かもしれない。