自分と向き合う | これでも元私立高校教員

これでも元私立高校教員

30年以上の教員指導を通じて、未来を担う子供たち、また大人の思考などをテーマに書き綴っています。
日本史と小論文の塾を主宰し、小学生から大学生、院生、保護者の指導をしています。

思考の指導をしていると、思わぬ気づきがある。

 

例えば、よく耳にする「自分と向き合う」こと。

今日はこのことについて考える機会を持たせてもらい、このテーマで思考することが、実は私にとってもとてつもなく貴重な時間となった。

 

私の世代には、そもそも「自分と向き合う」といった発想すらなく、自分の在り方、考え方に特に疑問を持つことも無かった。

もっともそれは私だけのことで、ほかの人は向き合っていたかもしれないが、私は特に意識したことはなかった。

 

それだけに、この年になって改めて「自分と向き合う」と、いろいろな気づきがある。

 

例えばだが、私は今の仕事を通じて、いかに「人のお役に立つ」「誰かの支えになりたい」などと考える。

しかし、改めて「自分と向き合う」思考をしてみると、それが時にわがままであり、自己中心的であると気づかされる。

 

確かに、人は自分がかわいい。

しかし、少なくとも自分は「他者のため」といった意識で、相手に接しているつもりだ。

 

だが、今日の生徒さんとの思考を通じて感じたことは、やはり私自身も自己中心的、またわがままで身勝手な発想が多々あるということだった。

 

私は55歳。

通常なら、例えば会社で責任ある地位に就き、しっかりと仕事に取り組んでいる年齢だ。

そんな私が中学生・高校生のように「自分と向き合う」のは妙なことかもしれない。

 

しかし、思うのである。

今、変らなければ、多分、もう一生変わらない。

それでは、いかに「人の支えになりたい」なとどいっても、所詮は自己満足で終わってしまい、本当の意味での信頼などは得られない。

 

今日はそんな自分で決めた。

 

これからちゃんと自分と向き合い、自分の悪いところを認め、少しでも良き人間になれるようチャレンジしてみよう

 

 

改めて振り返ってみると、ずっと、人生の中で、言い訳したり誤魔化して生きてきたように思う。

だから、時に、人を不快にさせ、悲しませてきたように思う。

 

私は、こうした気づきをさせてくれることに心から感謝している。

だからこそ、「自分と向き合う」ことをしないと、あまりに申し訳ないとも思う。

 

今日は、高校2年生の小論文講座が長引き、今から塾で「日本史ライブ講座」の発信をする。

塾を車で出るのは、午後11時過ぎになる。

確かに疲れるし、時には眠たい。

 

でも、

 

私は考えることが好きだし、その話を聞いてくれる人も大好きで、そうした人との語らいは人生の宝物だと思っている

 

だからこそ、「自分向き合う」ことから逃げずに、少しでも自分を変え、そうした人の支えになれればと思う。