以前、女子高に勤めていた時に、よく生徒たちがこんなことを口にしていた。
「最近の女子高生はって、ひとくくりにされるのはすごく嫌だ」
もっともであろう。
誰しも、その個人の人格があり、その人格の上に、社会的な肩書である「高校生」がのかっているだけで、その社会的肩書と人格は別だからである。
「官僚は、嘘つきだ」
こういうのも、おなじ類であろう。
女子高生に限らず、個人の人格を無視して、ひとくくりに語られるのは、決して愉快なことではない。
だが、私も含め、しばしばそれをしてしまう。
最近は、中国や韓国に対して同じことだ。
むろん、個人的に、街中でそういった外国人に腹が立つこともある。
ただ、それはその国の人、全体のことを指しているのではない。
しかし、最近は、その国の話題ですら、嫌悪感を持つ人もあり、これをされて、逆に仕方がないと思う外国人がいるのだろうかと思ってしまう。
歴史とは、残念ながら、この「見方」で、まったく違うものになる。
だからこそ、歴史の「見方」とは、その時の状況や、相手の立場を推測して、考えなければならない。
つまりは、「思いやり」をもって、見ることが大切だ。
どんな事情があるにせよ、自国を支配されれば、それを感謝する人はあまりいない。
どんな事情があるにせよ、悪事を働いた人と同じ分類をされて、喜ぶ人はあまりない。
どんな事情があるにせよ、自分が好感を持っていない人の仲間だといわれては不快であろう。
最近の世の風潮や学校教育は、どうにもこうした個々ではなく、全体、つまりは集団での判断・評価を良しとする傾向が強くないか?
みんなが同じ考え、同じ感想、、、、なんとも不気味だ。
個々の在り方を尊重し、個々の考えを大切にし、「全体主義」に陥らない社会、教育であってほしい。
少なくとも、国際化を目指すなら、個々の尊重こそ、絶対に譲ってはならない。