これでも元私立高校教員

これでも元私立高校教員

30年以上の教員指導を通じて、未来を担う子供たち、また大人の思考などをテーマに書き綴っています。
日本史と小論文の塾を主宰し、小学生から大学生、院生、保護者の指導をしています。

2017年12月1日 日本テレビ「スッキリ」

テーマ:

「批判的思考ってなんですか?」

こんなことをよく聞かれる

 

批判的思考はクリティカルシンキングと呼ばれる

 

「批判的って悪口を言うこと?」

 

そんなふうにも思われがちだ

 

批判的思考力とは

当たり前を正解と思ったり

常識を当たり前だと思ったり

正解こそ間違いないと思うことを

 

「疑う」ことだ

 

「つまりいくつも答えがあるってやつですか?」

 

なんだか、それも短絡的で違う

そんな単純なマニュアル的なものではない

 



これからAI時代を迎える

いや、既に突入していると言っても良いであろう

 

「AIが普及すると、仕事がなくなるぞ」

 

そんなふうに高校生に伝えたりする先生も多いけど、これは「批判的思考」は言えない

ただ、どこかで聞いてきた言葉を「生」のままに伝えているだけだ

 

この「生」は「批判的思考」とは対象的なもので、「正解」であったり「描写」である

 

批判的とは「疑う」ことである

ならば最低でも

「仕事がなくなる」

とはどのようなことであるのか、批判的に「疑問」を持つところから始めなければならない

 

例えば、全員が仕事がなくなると言うのは、全員が収入がなくなり、失業することになる

しかし経済学において、失業率の上昇と言うのは必ず不景気になってしまう

つまり、商品の購買力が低下し商品が売れなければ、企業は存在を脅かされるからだ

 

一方で、AIが効率的に金銭を生み出し、ベーシックインカムが実施されるようになり、働かなくても購買力が低下しないとする

しかし、それは人間としてのモチベーションや自己肯定感を下げ、何よりAIに「支配」されることにつながる

つまり、クリティカルに物事を考えれば、仕事がなくなることよりも「支配」されることの方が問題であり、実際は、一部の仕事を除いて、仕事が効率化され、短時間化されるだけであって、仕事がなくなるわけではない

 

一方で、「頭脳労働」はAIが請け負うために、人間の仕事は「感情労働」が主なっていくかもしれない

そうなると、人間に必要な能力とは、過去の時代とは大きく異なり、そのための学ぶ内容や学び方を、大きく変化させなければならない



そうしたときに、学校教育の学びはどうであろうかと「疑う」

今の教育は、未来思考であれば、過去とは全く別のものになってなければない

タブレットを使ったり、パワポを使ったりといった問題ではない

それは単なる手段だ


「探究」と名のついた「調べ学習」の授業なんて昭和と同じだ

昭和だって、班に分けられ、先生からテーマを示され、「図書館」(タブレット)で調べコピペし、コピペ内容をどうまとめるか「ディスカッション」して、それを「模造紙」(パワポ)に色鉛筆でまとめ、それを黒板に貼ってプレゼン、絵の出来栄えで良く評価になった

いまも昔もやってることは同じだ


先生と生徒が「ディスカッション」をしないのもいまも昭和と同じだ

 

膨大な知識をたくさん知っているものが、偏差値が高くなり「頭がいい」と評価される

しかし、学びが批判的思考力の育成や論理的思考力の育成に大きく変化した時、大人から見て学校の学びは

「昔、こんなの習ったわよね」

「勉強とはこんなものだ」

「懐かしい」

と言うものでは全くなくなるはずだが、いつも「懐かしい」

 

そうなると、未来はクリティカルではなく「支配」だ

 

昨日、サザンオールスターズのライブに行った

アリーナで見ることができたライブは、本当に素敵な時間だっだ



サザンの桑田さんは、年を取っていろいろと変化していた

それは衰えといった変化ではなく、おそらく社会への「使命」を想っているのではないか

自分の持っている力を

良き社会のために

そうした「使命」を感じているのではないか

歌詞からそんなことを強く感じた

 

社会がいい意味でも悪い意味でも、急激に急速に変化している

何かを指導する側も、急速に急激に変わらなければならない

残念ながら「経験」の価値は下がり、「思考」や「創造」「挑戦」の価値は上昇している

年齢に関係なく

夢を追えるし

「変化」は未来を創る

 

だからこそ、自分の使命を発見し、自分の使命を想像し、自分のできることを、「新しい未来」のために役立てなければならない

「経験」の価値が下がるのは、年齢が重なるほどつらいかもしれないが、新しいことはいつも楽しい

 

桑田さんは私より年上で、なおかつ「新しい未来」を創る「挑戦」をしている

その影響力を良い社会のために使おうとしていおる

きっと人生の最後まで音楽を続け「挑戦」の旅をする

 

かっこいいなと思う

未知への「挑戦」は楽しく、なにより未来志向で夢がある

疲れることも多いし、心折れることも少なくない

でも「新しいことへの挑戦」と「教えること」が、心と体を癒し、勇気と元気を与えてくれる

 

サザンオールスターズはきっとライブを続け、また夢の時間を創り

良き社会を目指す


私は「教ること」と「クリティカルシンキングへの道」を続け

良き社会を目指す


そうすればきっと

人生の最後まで成長し続けることができ

サザンオールスターズの50周年ライブで

飛び跳ねて歌うことができる




 

 

 

 

 

 

 

今日から新中学1年生のクリティカルシンキング講座がスタートした。

女子ばかりの3人のクラス


この場所で90分

無限の思考の世界を体験してもらった

今日、挑戦してもらったのは

「抽象と具体の蜂の巣」


挑戦するたびに全く違う世界が作られ

同じ人間がやっても

全く違うものになる


同時に、

具体的なものは抽象的なものであり

抽象的なものは具体的である

そんなことを学び

物事には、正解がないことを体感できる


私たちの未来は

AIによって効率化されて合理化される

そうしたAIを批判的に見ることができるかどうか

さらにはAI以上に多角的な視野を持てるのか

そんなことをいつも思う


音楽を聴いていると

人間の能力は、AIよりはるかに上だと感じる

あの限られた音符の中で、無限のメロディーを作り出す

しかもそれはテンプレートでもなければ、マニュアルでもない

何百年もの間新しいものを産み続けている


そんな人間の素晴らしさを

忘れないような未来にしたい


明日はサザンオールスターズのライブだ



もちろん、サザンオールスターズは何十年と好きだけど

こうしたライブの中に

思考の世界がある


サッカーを見に行っても同じだ

万博を見に行っても同じだ

温泉地に行っても同じだし

毎日の通勤の道だって同じだ


そこに深い深い思考の世界がある


ただ批判的に考えなければ

その景色はワンパターンになる


考える世界は深い

調べ学習は立派だけど正解を求める

探究は深い

調べ学習と探究はあまりに違う


3人の新中学1年生は

楽しそうに相談しあって

未知の世界に挑んでくれた

知識がなくたって考えることができることの素晴らしさを知る


この3人と

一緒に未来を創ろう

きっと、それはワンダフルワールドだ




テーマ:
夕日に向けて1時間ほどウォーキング
気がついたら隣町の覚王山



日泰寺の門前町であり
昔の教え子のサロンや



Instagramでフォローしていただいてる方のお店の前を通る



こうして歩いている中で
クリティカルシンキング講座の教材を考える

街の様子
走る車
道行く人々
木々や風

こうしたものの中に思考のトレーニングの教材がたくさんある



ただ見ていればそれだけの景色かもしれないが
クリティカルに眺めていると本当にいろんな発見をする
もちろんそれは答えでもないし知識でもない
だけど学問そのものであり
教養そのものだ

必死になって暗記したものは
残念ながら結構忘れちゃうけど
こうした思考の中で得たものは
ずっと残り続ける
思い出と一緒だ

ウォーキングの音楽は
サザンオールスターズ

来週はライブに行く
個別指導や授業があったけど
みんな快く
「ライブ楽しんできてください」
と言ってもらえる

そんな春の夕方

#名古屋
#覚王山
#ウォーキング
#クリティカルシンキング

テーマ:

小学生からずっと子供は「勉強」と向き合う

「小学生の最初の頃は楽しそうに勉強していたのに」

小学生の後半からだんだんと「勉強」は嫌われる
誰かが子供に「勉強」を嫌いにさせている
「勉強」が楽しい「環境」がなくなっている



本は読ませるものではない
親は子供の周囲に本を置く
本がある「環境」をつくる 

親が本を読む
誰かが本を読んでいる「環境」をつくる
読む読まないは子供の自由
読まなくても悲観する必要などはない
単なる選択

子供に興味を持たせたい
お金を出してそれを人に任せるのも良い
それも「環境」
でももっと良いのは、親自身が興味関心を強く持つことだ
それが子供にとって「環境」になる

子供の思考力を育てたければ親が思考的になるべきだ

思考的とは「疑問」
同じ景色を見ても「疑問」があると人とは違う景色に見える
それが課題発見能力につながる

親に「疑問」がある「環境」は、子供に「疑問」の習慣を身に付けさせる

「環境」は子供が小さければ小さいほど大切だ

無理矢理何かを押し付けるのではなく「環境」を整える
そこに育つ子供たちはみんな違った選択をする

「兄弟なのに、なんでこんなに違うのかしら」
当たり前のことで、上の子には兄はいないし、下の子には弟はいない

「環境」を整えるのだって、時期や順番があって、同じ「環境」にはならない
だから兄弟の比較って本当に無意味だ

勉強ができた方が良い
勉強には真面目に取り組む事は立派だ

でも、そうじゃない他のものに取り組むのだって悪いことじゃないし、それだって「環境」による

私は子供の頃から勉強しろと言われたことがない
だから勉強したことがない
ちゃんと成績も悲惨だった
でも、他の兄弟は勉強をしていた

本を読みなさいと言われた事は無い
でも兄弟はみんな家中にあった溢れるような本を読んでいた
しかしながら、読み方はみんな違う
私は同じ本を何回も繰り返すのが好きだった
人それぞれだ
それが今日の小論文指導にとてつもなく生きている

それぞれみんな違うのである

とりとめもない内容である
食事だってお風呂だって、服だって、レジャーだって、テレビだって、ゲームって、全部「環境」

その評価を「勉強」の成績だけに集約するのは、なんだか妙だ

保護者を見ていると、そんなことをよく思う






「日本史は暗記科目」

誰しもが、疑いなくそう思っています。

しかし、中学受験・高校受験でも、むろん大学受験でも、それをいえばどの科目も「暗記科目」です。

その暗記を乗り越えれば、受験の勝利者になれるというわけです。

 

つまり、その暗記が苦手な生徒は、受験に勝つことは容易ではないということになります。

さらには、暗記が苦手な生徒が、暗記な得意な生徒と同じ「暗記の土俵」で競争し続けるのはあまり良い方法とはいえません。

 

長坂塾の日本史は「覚えない日本史」です。

それは興味関心を高めるといったことではなく、暗記せずに偏差値をあげるための独自のトレーニング方法です。

 

暗記が苦手、日本史が好きではない、そんな生徒にとって下の7つの勉強方法は、苦痛であり、その苦痛はますます日本史を苦手にします。

例えば、「年代暗記」です。

これは苦痛です。少なく見積もっても300個は覚える必要があり、それを「ゴロ合わせ」でやるなんて苦行です。

しかし、これは共通テスト「日本史探究」には、どれだけ検証をしても「年代暗記」は不要です。

なぜなら「出題箇所の予測が可能」「出題の仕方が明確にある」からです。

ですから毎年、共通テストの「順番並び替え」を的中できるのです。

この法則を知るだけで、暗記の量は劇的に減少します。

 

また「正誤問題」も同様です。

これは順番並び替えも同様ですが、「正誤問題」は歴史学に基づいて作成されています。

ですから歴史的なアプローチをして、さらに長年その角度から分析を続ければ、「誤文の作り方」を知ることができます。

こうなれば、もう事前に問題の作り方、つまりは相手の手の内を知っている状態になります。だから最初から「誤文」を予測できるのです。

ただ、こうした法則を知る努力は受験生には大きな負担となるため、それは『テーマ別日本史解説集』と「覚えない日本史トレーニング」で学んでもらえばよいかと思います。

もちろん、日本史を学ぶことは楽しいことです。

歴史を知ることは未来を想像できることであり、そこには多くの思考が存在します。

日本史講座の最大の目的な歴史を好きになってもらうことです。

しかし「暗記」の苦痛が大きく偏差値が上昇しても、それでは好きにはなれません。

 

だからこそ、講座の最中には、様々な「お話」が登場します。

受験なんだから余談って思われるかもしれませんが、暗記の負担が少ない分、そうした時間を持つことができるのです。

だからこの講座は、授業をしませんが、楽しいのです。

 

「日本史は暗記科目」

 

その常識を疑い、解決策を考案する、そうすることで何度も愛知県1位の日本史になっていくのです。