6月は良い季節だ。
人によっては、梅雨が苦手な人もいるかもしれないけど、6月は良い季節だ。
古い神社の苔は、1番美しい季節だし、何より、紫陽花が素敵だ
そんなことで、愛知県の形原温泉あじさいの里に行ってみた。
2017年12月1日 日本テレビ「スッキリ」
6月は良い季節だ。
人によっては、梅雨が苦手な人もいるかもしれないけど、6月は良い季節だ。
古い神社の苔は、1番美しい季節だし、何より、紫陽花が素敵だ
そんなことで、愛知県の形原温泉あじさいの里に行ってみた。
小学校や中学校の頃、勉強ができなかった。
正確に言えば、先生の話は、もはや日本語ではないほどだ。
だから私のところに学びに来てくれる現在の小学生や中学生の賢さには日々驚かされる。
小学生なのに、イラン情勢に興味があるとか言われると、かつての自分が小学生だった頃、そもそも、イランなんて国も知らなかったし、「情勢」なんて、全く未知の言葉だった。
中学生になっても、
「面白い」を「めんじろい」
「真面目」を「まめんめ」
なんで誤読しながら本を読んでいた。
でも本は楽しかった。
周囲の友達はみんな勉強ができた。
名古屋地区の方しかわからないことだが、仲の良い友達は、瑞陵高校、明和高校、千種高校なんかに進学していった。
それでも仲良く付き合ってくれた。
中学3年生になって、さらに成績が下がった私は、底辺の公立高校に進学し、そこでも、学年最下位の順位をとって、評定「1」が一度に7つもあったこともある。
自分が勉強できないことすら理解できなくて、あまり劣等感もなく、屈辱感もなく、悔しさもなく、1日12時間も寝ながらたくさん牛乳を飲んで、ビリー・ジョエルを聴いて、司馬遼太郎を読んで、日々を過ごしていた。
結果として、中学校まではとても小さな男の子だったけど、高校3年生のときには、身長が181センチ。
まさにウドの大木。
教員の世界とは、学歴大好き社会である。
学校とは勉強する場所であり、その勉強の成果を最も表すものが学歴だからであり、学歴が悪いものは、そもそも教員にはほとんどなれなれず、学歴大好き社会となる。
役に立たないウドの大木が間違って教員になり、学歴大好き社会に登場する。
きっと周りから見ると、恐ろしいバカやってきたと思ったであろう。
でも、実際のウドの大木は、自分がバカであることに気がついてないので、脳天気なものである。
変な発言をしても、周りは優しいから何も言わないだけで、心の中では、何をバカなこと言っているんだろうと思われていた。
小学生や中学生の時もずっと一緒で、変なことを言ったり、人を傷つけたりすることがあっても、それすら気づけない。
小学校の時に仲の良かったS君
中学校の時に仲の良かったA君
気が付けば話をしてくれなくなった。
兄弟に聞けば、きっと
「なかなか酷かったよね」
そんなふうに話してくれる。
そんな私が32年間も教員をやってしまい、今なお小論文や日本史なんかを教え続けている。
そこにやってくる生徒は子は、すごく勉強ができる子もいるし、とてつもなく賢い小学生や中学生もたくさんいる。
そういう子たちを見てると本当にすごいなぁって思う。
どうしたらこういう風に育つんだろうかと、保護者への方へも驚愕の世界だ。
私は暗記が苦手だ。
日本史なんて専門にしてるけど、人生で知識を覚えようと思って努力はした事は1度もないし、人の名前を覚えるのが苦手な教員だったし、今も昔もモノはなくすし、今日もベルトはちゃんと通ってないし、よく行く店の名前を一向に覚えられない。
新しい人と知り合うのは、小さい頃からずっと苦手だ。
今更ながら、学校の勉強に向いているわけがない。
人から評価されるっていうのは、実はすごいことなんだと思う。
ましてや、良い評価を得る事は、とてつもなく大変なことである。
例えば勉強やスポーツの評価は明確でわかりやすい。
でも、、、
人よりも優しい
笑顔が素敵だ
花火を見て未来を想像できる
いつも話を楽しそうに聞ける
外で遊ぶのが楽しい
虫をずっと見ている
大好きな人がいる
ひとつのことに深くこだわる
空と話せる
こういうのってもっと評価したほうがいい。
私たちの社会は、ちょっと勉強や偏差値の評価が高すぎて、私のようにそうした価値観にうまく適応できない人間は、評価が低くなる。
所属している学校の名前だけで、人格の評価につながったりすることもある。
それも当たり前だ。
私は相変わらず勉強さんとは相性が悪く、仲良くはなれない。
だからこそ、
勉強は競争のためじゃなく楽しいし、勉強は道端を歩いていてもできると思っているし、それを評価するのが、きっと総合型選抜だ。
「総合型選抜で逆転で難関大学に合格できます」
こんなキャッチフレーズを見たりするけど、それはちょっと違う。
逆転ではない。
評価の価値観の基準が全く違うだけだ。
特別なすごい経験がなくても、優しさや笑顔は立派な個性で、それが評価してもらえる時代がようやくやってきたような気がする。
こんな私が1つだけ、不思議な能力がある。
それは
全く関係のない10個のエピソードを1つのテーマでくくり
そこに壮大なストーリーを作り上げ人を感動させる
それを結構あっという間にできる。
いつからできるかわかならいが、なぜか得意だ。
もちろん、学校の勉強には全く役に立たない能力だけど、意外と人生を豊かに楽しくしてくれる。
いつもいつも何かが「足りない」、そんなふうに思ってるけど、想像したり考えたりする世界は
「希望が有る」
育ちすぎたウドの大木は、こんなふうに生きている。
不思議だなと思う。
なぜ疑問に思わないのだろうか?
志望理由書のテンプレを使い、アドミッションポリシーを見て写せ、書く順番が決まっている、そんなふうに指導したら、みんな同じ志望理由書になってしまう。
しかも、真似して書かせて後は集めて、添削するだけ。
相手の人間と対話しようともしない。
そして、こんな感じになってしまう。
愛知県のどの高校の生徒がやってきても、みんなこんなテンプレの指導を受けている。
なんでそんなに画一的にしたいのだろうか?
例外がない。
もしかしたら、テンプレがテンプレじゃないと思っているのだろうか?
個性や人間性を重視する総合型選抜なのに。
小論文を書くのに、学校で指導を受ける。
全てがワンパターンな2項対立だ。
1,まず筆者の考えに賛成か反対か決めなさい
2.賛成の方が書きやすいぞ
3.テンプレに従って書け
私は筆者の意見に賛成である
なぜなら、、(本文から写す)
従って、私は筆者の意見に賛成だ
あとは、
1.字はきれいに
2.誤字脱字はダメだぞ
3. 80%以上かけ
誰が80%なんて決めたのか?
これまたみんな同じになってしまう。
こうした指導をして、どうやって人間が育っていくのだろうか?
みんな正解やコツばかり。
これが教育と呼べるのだろうか?
やってくる高校生がいろんな学校に在籍しているのに、みんな同じ指導を受けている。
英語や数学ならまだわかる。
明確に正解があるものならわかる。
そうじゃないのに、どうしてそんなに画一的にしたいのか?
悲しいけれど、そうしたテンプレに何の疑問も感じないか、それはこれからの未来に、本当にそれで教育は良いのだろうか?
政治家の皆さんも同じだ。
授業料の無償化やAIを使うか使わないかとか、そんなことばかりで、教育の本質に全然踏み込もうとしていない。
まるでロボットを作ってるみたいだ。
確かに支配には便利だろう。
志望理由書も小論文も、テンプレがあって、書き方のコツがあるって、本気でそう思ってるのか?
それがおかしいんじゃないかって疑ったり考えようともしていない。
いや、それが正しいことだと思い込んでいるのかもしれない。
こんなことをまた、元教員が言うと、現職の先生たちから
「やめた人間が偉そうなこと言うな」
32年間も教員をしてきたけど、そういう人たちからは何のリスペクトもない。
この国の教育はどうなってしまうのか?
もっと学問を大切にして
疑問を大切にして
考える過程を尊重して、
個性や人間性を豊かにする
本気で教育に取り組もうよ
元教員が偉そうに言うことではないと思うけど、
せめて高校生や保護者の方は、こんなテンプレに惑わされず、本気で考えることを学んだ方が良い。
そもそも勉強は楽しいぞ!
心の底からそう思う。
クリティカルシンキング講座は、名前の通り、クリジカルシンキング(批判的思考力)を伸ばしていくための講座だ。
ただ、何をしているのか、なかなか伝わりにくいことも現実であり、少しだけ紹介をする。
例えば、最新の教材
もちろん私が作る。
コンサルタントビジネスをされている方などは、よく耳にする言葉だと思う。
これを中学生や高校生に学んでもらう。
また、ときには、マーケティングやブランディングに取り組んでもらうこともあるし、レゴを使ったゲームに取り組んでもらうこともある。
こうした学びが、クリティカルシンキングや、さらには、ロジカルシンキング(論理的思考力)を育っていくのである。
その取り組みの中で、最も大切な事はこれだ。
「勉強はそもそも楽しい」
「勉強は競争のためではない」
だから、中学生や高校生だけではなく、子育てをしている保護者の方もぜひぜひ学んで欲しい、それがクリティカルシンキングである。
私たちの社会は、急速にAI化が進んでいる。
それは、タブレットを使った学びをすれば大丈夫と言う事でもないし、レールの引かれた探究授業で何とかなるようなものではない。
あらゆる分野、あらゆるカテゴリで、新しい学びを生み出し、クリティカルな思考力や、論理的な考え方を育てていかなければならない。
だからこそ、小学生や中学生の保護者の方も、過去の概念や常識を捨てて、学びの新しい世界にチャレンジしなければ、子供との乖離はますます大きくなるのではないだろうか。
ならばといつも保護者にも学びに来て欲しいと考えている。
よかったらお問い合わせください。
もちろん、こうした学びが、新しい大学入試の形に直結している事は言うまでもなく、さらには、社会で求められる人材に育っていく糧にもなる。
だだ、こうした新しい学びをより多くの人に理解してもらう事は簡単ではない。
従来の学びを指導する方が随分と簡単だし、指導する側だって楽だ。
しかし、教育とは未来を作っていくものであり、過去を振り返るものではないと思う。
そんな信念と使命感を持って、でも、楽しく愉快に未来を夢見ながらくれ、クリティカルシンキングを一緒に学んでいる。
高校3年生が総合型選抜や学校推薦型の入試を受けたいと体験にやってきてくれる。
みんな初対面だ。
たいていは、保護者の方と一緒にやってきてくれて、どんな説明をしてくれるのだろうかと思いながら来てくれる。
この体験という機会の出会いは、ときには、最後の出会いになる。
もちろん、その後に継続した関わりになることもあるけど、その日が最後になる時だってある。
だから、せっかく来てくれたのだから、少しでも役に立つことを伝えて、持ち帰ってもらえるように努力する。
テンプレートの志望理由書と
個性的な志望理由書の違いを出来る限り説明する
二項対立に陥ってしまう小論文と
思考を深める小論文の違いを説明する
未来社会を生きていくために必要なことを出来る限り伝える
この入試が受験だけのためではなく、人生に役立つことを伝える
伝えたことに、それぞれ高校生や保護者の方がどのような価値観を見出すのか、それは自由だ。
選択肢が増えてくれたら、それで充分だ。
テンプレートの書き方、つまりきっかけ、志望理由書しか方法がなくて、それが絶対的な正解だと思い続けるのは、やっぱりちょっと残念だと思う。
二項対立で、まずは筆者の意見に賛成か反対か決めましょう、賛成の方が書きやすいよ、って言うやり方しかないと思い続けるのはちょっと残念だと思う。
もっともっと、いろんな可能性があって、いろんな道を見いだすことができて、そこに自由があって正解がなく、学問への道がある。
総合型選抜は学問への道である
初めて出会う高校生や保護者の方と仲良くなれる事は、とてもうれしいことだ。
でも、最後の出会いになることだってある。
私の体験や説明は、時に2時間を超えることがある。
長くなりすぎてしまって、聞いてる方も大変だろう。
でも、それだけ伝えることが、伝えておきたいことがたくさんあって、せっかく来てくれたのに、少しでも多くの役に立つことを伝えたいと思う。
体験の場とは、そんな教育の場であると強く思う。