「まず疑え」
「よく考えてみろ」
学校でもよく先生はそう言う。
確かに「疑う」ことはとてもいいことだし、よく考えることも素晴らしい。
ただ、生徒にそのように指導をするのはいいが、実際は、自分自身が過去の「経験」や「正解」に固執し、「疑う」ことを忘れていないか?
沖縄に修学旅行にいった高校生からお土産をもらった。
「あまり楽しくなかった」
意外なことを言う。
よくよく聞いてみると、修学旅行の内容が「平和教育」一色だったそうだ。
「平和教育」が悪いわけではない。
しかし、沖縄にいって美ら海水族館にも行かないし、海でのアクティビティもない。
それは確かにつまらないし、「平和教育」にむしろ嫌悪感を植え付ける努力をしているようだ。
修学旅行=研修
沖縄=平和教育
それ以外に何かないだろうか?
沖縄でほかに学べることはないだろうか?
そういう疑問はないのだろうか?
沖縄の素晴らしい自然や、現在の沖縄の観光の在り方を体験することも、大切な学びだし、何より、友人と一緒に楽しい時間を過ごすことは最高の学びだ。
事前に平和研修をしては感想文
平和の映画をみては感想文
帰ってきても感想文
なんだか、昭和みたいで、ずっと同じことをしている。
「小論文は400字なら380字を書くのが当たり前です」
「志望理由書には書く順番があります」
「このテーマなら、この内容を書きましょう」
「志望理由書に興味のある授業やゼミを2つは書いとけ」
そんな代り映えのしないテンプレートなワンパターンな指導内容、またそれが書かれたプリントをよく見る。
どれもこれも、自分で考えたのではなく、ネットや何かの本の内容を丸写ししたものだ。
なんだか妙なのは、例えばだが「380字」に疑問はないのだろうか?
それは誰が決めたのであろうか?
それはなんの「正解」なのか?
さらには志望理由書を「書く順番」なんてだれが決めたの?
就職のエントリーシートも同じだ。
ゼミや授業の名称を「2つ」って、何を根拠に言ってるの?
こういっては何だが、世の小論文指導、志望理由書指導って、このように「みんな同じ」で、つまりは「みんな同じ」になってしまって、「個性や人間性」を評価する総合型選抜を受験する。
なんだかおかしくないか?
それに「疑問」ってないのだろうか???
今日、体験に来てくれた生徒さんも保護者の方も、学校の説明会で「テンプレート=正解」と聞かされて眠たかったそうだ。
そんな話をして「疑問」がないのだろうか?
もちろん、生徒をみんな同じにしたければ、「疑問」を持つ必要もないし、考えずに丸写しすればよい。
まるでロボットの生産のようだ。
それにもまた「疑う」はないのだろうか?
昨日から2026年の入試対策の「日本史講座」を始めた。
「日本史は暗記科目」
「教科書を読め」
「年号は語呂合わせで覚える」
「漫画で流れをつかめ」
そんな「常識」がたくさんあるけど、それに「疑問」を持たなければ新しい勉強法は生みだせないし、驚きもない。
だから、授業内容に大きな衝撃がある。
過去の経験が「常識」を生む。
でもその「常識」を覆すから人間は進化するし、文明は素晴らしいものになる。
「このやり方に決まってるだろう」
そう思い続けるのは残念ながら、もう成長しないし、ずっと同じことになる。
それは、安全だし、気楽だし、なにやらもっともらしい。
ただ、新しい世界を見ることは絶対にない。
そうやって育ってしまえば、「疑問」「考える」より、いつも過去の「正解」ばかりを求める人間になり、それが大人になって教える側になれば、また同じことを繰り返す。
それは結構つまらない。
それではGoogleもInstagramもappleもYouTubeも生まれない。
「疑問」を失えば、進歩が無くなる。
でも「疑問」をもてば、楽で簡単な「正解」を捨てることになり、志望理由書を書くのも、新しい修学旅行の企画も大変だ。
つまり、「疑問」とは困難な道になるけど、他者とは異なった道を歩み、未知の世界に続く。
だから大変さには魅力があるし、その未知への挑戦は人を成長させる。
ただし、「疑問」がないとその道は見えない。
まずは、小論文の「書く順番」と、小論文の「380字」に疑問を持とう。
同じ人に教える仕事をするなら、そのほうがきっと楽しい。







