これでも元私立高校教員

これでも元私立高校教員

30年以上の教員指導を通じて、未来を担う子供たち、また大人の思考などをテーマに書き綴っています。
日本史と小論文の塾を主宰し、小学生から大学生、院生、保護者の指導をしています。

2017年12月1日 日本テレビ「スッキリ」

「まず疑え」

「よく考えてみろ」

 

学校でもよく先生はそう言う。

確かに「疑う」ことはとてもいいことだし、よく考えることも素晴らしい。

ただ、生徒にそのように指導をするのはいいが、実際は、自分自身が過去の「経験」や「正解」に固執し、「疑う」ことを忘れていないか?

 

沖縄に修学旅行にいった高校生からお土産をもらった。



「あまり楽しくなかった」

意外なことを言う。

 

よくよく聞いてみると、修学旅行の内容が「平和教育」一色だったそうだ。

「平和教育」が悪いわけではない。

しかし、沖縄にいって美ら海水族館にも行かないし、海でのアクティビティもない。

それは確かにつまらないし、「平和教育」にむしろ嫌悪感を植え付ける努力をしているようだ。

 

修学旅行=研修

沖縄=平和教育

 

それ以外に何かないだろうか?

沖縄でほかに学べることはないだろうか?

 

そういう疑問はないのだろうか?

 

沖縄の素晴らしい自然や、現在の沖縄の観光の在り方を体験することも、大切な学びだし、何より、友人と一緒に楽しい時間を過ごすことは最高の学びだ。

 

事前に平和研修をしては感想文

平和の映画をみては感想文

帰ってきても感想文

 

なんだか、昭和みたいで、ずっと同じことをしている。

 

「小論文は400字なら380字を書くのが当たり前です」

「志望理由書には書く順番があります」

「このテーマなら、この内容を書きましょう」

「志望理由書に興味のある授業やゼミを2つは書いとけ」

 

そんな代り映えのしないテンプレートなワンパターンな指導内容、またそれが書かれたプリントをよく見る。

どれもこれも、自分で考えたのではなく、ネットや何かの本の内容を丸写ししたものだ。

なんだか妙なのは、例えばだが「380字」に疑問はないのだろうか?

それは誰が決めたのであろうか?

それはなんの「正解」なのか?

 

さらには志望理由書を「書く順番」なんてだれが決めたの?

就職のエントリーシートも同じだ。

ゼミや授業の名称を「2つ」って、何を根拠に言ってるの?

 

こういっては何だが、世の小論文指導、志望理由書指導って、このように「みんな同じ」で、つまりは「みんな同じ」になってしまって、「個性や人間性」を評価する総合型選抜を受験する。

なんだかおかしくないか?

それに「疑問」ってないのだろうか???

 

今日、体験に来てくれた生徒さんも保護者の方も、学校の説明会で「テンプレート=正解」と聞かされて眠たかったそうだ。

そんな話をして「疑問」がないのだろうか?

 

もちろん、生徒をみんな同じにしたければ、「疑問」を持つ必要もないし、考えずに丸写しすればよい。

まるでロボットの生産のようだ。

それにもまた「疑う」はないのだろうか?

 

昨日から2026年の入試対策の「日本史講座」を始めた。

「日本史は暗記科目」

「教科書を読め」

「年号は語呂合わせで覚える」

「漫画で流れをつかめ」

そんな「常識」がたくさんあるけど、それに「疑問」を持たなければ新しい勉強法は生みだせないし、驚きもない。

だから、授業内容に大きな衝撃がある。

 

過去の経験が「常識」を生む。

でもその「常識」を覆すから人間は進化するし、文明は素晴らしいものになる。

「このやり方に決まってるだろう」

そう思い続けるのは残念ながら、もう成長しないし、ずっと同じことになる。

それは、安全だし、気楽だし、なにやらもっともらしい。

ただ、新しい世界を見ることは絶対にない。

 

そうやって育ってしまえば、「疑問」「考える」より、いつも過去の「正解」ばかりを求める人間になり、それが大人になって教える側になれば、また同じことを繰り返す。

それは結構つまらない。

それではGoogleもInstagramもappleもYouTubeも生まれない。

 

「疑問」を失えば、進歩が無くなる。

でも「疑問」をもてば、楽で簡単な「正解」を捨てることになり、志望理由書を書くのも、新しい修学旅行の企画も大変だ。

つまり、「疑問」とは困難な道になるけど、他者とは異なった道を歩み、未知の世界に続く。

だから大変さには魅力があるし、その未知への挑戦は人を成長させる。

ただし、「疑問」がないとその道は見えない。

まずは、小論文の「書く順番」と、小論文の「380字」に疑問を持とう。

 

同じ人に教える仕事をするなら、そのほうがきっと楽しい。

 

 

明日から、2026年度の日本史講座がスタートする。

今日は札幌市で受講する生徒さんから

「テーマ別日本史解説集が届いていない」

なんて連絡があった。

明日までに無事届けばいいのだが・・・・

image

さて、この本は、作り始めてもう20年くらいになる。

最初は、プリントの延長みたいなもので、文字数も1万5千字くらいだった。

それがいまは90万字だ。

毎年増え続け、すべてwordで入力している。

 

この本を作るときのルールがある。

それはほかの参考書を写したり、参考にしないことだ。

他の参考書がダメという意味ではない。

きっとどれもこれも良くできている。

もでも、それらをみて丸写ししたり、模倣したりすれば、それはもうオリジナルではなくなるし、そもそもいくら真似をしても、オリジナルを越えることはない。

参考にするのは実際の入試問題だけであり、それをオリジナルの「分類」法でまとめてある。

例えば、明治時代なら「明治-1」から「明治—70」といった具合だ。

 

そうなると製作はとてつもなく大変で、毎日のように3時間、向き合って、試行錯誤を重ねる日々が何年も何年も続いた。

だから、90万字もある本だけど、どこに何が記載されているか全部知っている。

例えば、「二条良基」なら「室町文化—4」の➀だ。

この本をつかっての有効な指導とは、これができないと難しい。

そういう意味では、指導者には大変な本でもある。

 

そんな解説集を使って楽をしようと、考える不埒な教員もいる。

「この本は自分が作った」

と生徒には話し、中身を丸パクリして、生徒にプリントとして配布する。

実際は、自分が製作していなので楽は楽だろうけど、なんとも情けないことだ。

参考書を丸写しのプリントは学校ではよくあることだが、このケースはあたかも自分が作ったことにしているだけ、余計に情けない。

プライドがないのだろうか?

 

この解説集は、我が子のようなもので、辛い時期もずっとずっと一緒だった。

作って工夫をすればするほどその不完全さに気が付き、試行錯誤すればするほど、使ってくれる生徒のことが心を過る。

そんな人生をかけて作ってきた我が子を、丸パクリして、しかも自分が作ったようなふりをされると、私はよくても解説集を侮辱されたような気持になる。

 

今年も受験の真っ最中で、この解説集を使ってくれた受験生から

「明治大学に合格しました」

なんてLINEがくる。

これは本当にうれしいし、なにより解説集を尊重してくれるのが最高だ。

 

そんな風に解説集を大切にしてくれる受験ために1年間の旅が始まる。

この本の本当の価値を、1年後に理解してくれるように、頑張っていこうと思う。

 

今日は、1ヵ月以上前に予約してずっと楽しみにしていた三重県のお店に牡蠣を食べに行った。



予約するときに12時が空いてなかったので14時に予約をしたら、お店から電話があり、12時でもお席があります、とのことで、ならばと12時にお願いをした。

誕生日のお祝いだった。

 

12時の予約で12時に着いたが、なぜだがわからないが、後から来た人たちが次々に先に案内され、席に着いたのは1240分。

 

しかもその部屋が驚いた。

明らかに日常的には使われていない部屋で(もし使われていたらなお驚く)、天井はカビで黒く汚れ壁紙が剥がれ、入口の扉は傾いて、まともに閉まらない、使用されていない椅子やテーブルが、部屋の隅に積まれている。

なにより寒い。

さらに部屋には灯油缶やポンプが床に置かれ、謎の巨大なパイプまで置いてある。

そこに至る階段はとても急で高齢者には拷問だし、掃除もされてもおらず薄汚れれていた。

よく言って物置だ。

もちろん、人生であんな悲惨な場所で外食をしたことは、一度もない。

 

案内された机に座ったが、他のテーブルにはあったお品書きも牡蠣鍋を取る小皿もない。

店員を呼ぶボタンもなく、叫んでも届く環境ではない。

仕方なく、無礼だとは思ったが、隣の机に置かれた小皿やお品書きを借りる。

店員さんが来たので借りたことを告げると、

「了解しました」

と謎の返事。

何を了解したのだろうか?

 

料理はまあまあ美味しいが料理ごとの間隔がやたら長く、ずっと待つ。

デザートは20分以上待ったけど出てこず、あきらめて店をでた。

 

人気店なんだろうが「おもてなし」の精神を忘れた店。

二度と行かない。

 

さて、怒っていても建設的ではないので、クリティカルシンキング講座の教材とする。

「なぜこんな接客なんだろうか?」

「なぜこれはまずいと気がつかないのだろうか?」

 

高校生や中学生と一緒に考えてみる。

 

「人気店で、客なんて何をしたって来る、そう思っている」

「美味しい牡蠣食べさせてやっていると思っている。

「日本人の客がこなくても、外国人が来るから大丈夫」

「社長の性格が悪い」

 

なかなか興味深い。

 

デザートを食べずに帰っていった客に、お店側は、

「カスハラだと思っている」

なんて意見もある。

 

さらには、

「利己主義だから」

「たぶん考える能力がない」

「学校で親切を学ばなかった」

「社長が子供の頃、学校いじめをしてそう」

などと教育に話題が広がる。

なかなか辛らつだ。

 

お店を後にし、その後に伊勢神宮のおかげ横丁に行った。

40年前には閑散としていた伊勢神宮の門前町は、いまは大賑わい。

たくさんの人が楽しんでいる。

 

一軒のお茶屋さん。

お茶の良い香りに誘われお店の中へ。

「お茶をどうぞ」

お店の方が、温かいお茶を振舞ってくれる。

凹んだ気持ちを癒してくれる。

 

さらに小さなカフェで休憩。

店内にはたくさんのレコードがおかれ、室内はこだわって作ったことが伝わる。

お店に入って、着席して、「物置」だと感じた世界観は、いったいなんだったんだろうか。

トラジャコーヒーがおすすめのお店で、経営者のご夫婦(たぶん)も、

これこそまさに「おもてなし」だ。

そりゃ40年前に比べて、お客さんも増えるはずだ。

 

三重県の方言は柔らかく、人はとても親切だ。

伊勢の言葉の

「なっとしよう」

なんてとてもかわいいし、なによりも笑顔がいい。

ただ、今回は、たまたまくじ引きで大外れを引いてしまっただけだ。

 

皆さん優しい三重県人。

おかげさまで気分良く帰る。

おかげ横丁に助けてもらった。

 

ありがとう。

2月14日は誕生日だった。

バレンタインデーに生まれた子供の頃は、誕生日プレゼントはいつもチョコレートで結構嫌だった。


でも、今年はまずはサザンオールスターズからお祝いをしてもらった

それだけじゃなくて、チューリッヒから帰国した姉からチョコレートをもらった。

日本でも人気のリンドール。

これはとてもおいしい。

とてもうれしい誕生日プレゼント。

そんな誕生日も朝10時から夜の10時までお仕事。

朝はNHK文化センター、名古屋教室に行って「やり直しの日本史」。

江戸時代の税制度と現代の税制度を比較しながらのお話。

午後になって、愛知県の滝中学に合格した小学生の親子がご挨拶に来てくださった。

お母様が、北海道のご出身で、六花亭の凄い詰め合わせをいただいてしまった。



とてもうれしい誕生日プレゼント。

その後、新高校2年生の小論文講座。

今日から参加してくれた生徒さんの保護者の方からまたまた川上屋の詰め合わせをいただいた。

とてもうれしい誕生日プレゼント。



最後は、名古屋のクレイン学校の「ドイツポーランド研修」の勉強会のオンライン講師。

オンライン越しに参加をする中学生や高校生が、ハッピーバースデーを歌ってくれた。


そんなことがあっても、毎日の仕事は変わらず続く。

誕生日前に健康診断に行った。

やはり歳だから、いろんなものが見つかる。

それでも、日本の教育を変える志は変わらない。

クリティカルな学びを1人でも多くの中学生や高校生に届けたい。

学校教育で育てられる一問一答が得意な生徒ではなくて、当たり前の世界に疑問を持って、それを学びの入り口とする、そんなことがいつも普通にできる生徒を育てたい。

テンプレートを頼りにしないような思考力を持った生徒を育てたい。


そんなことを考えながら、淡々と誕生日は終わる。

今オリンピックが行われている。

私の好きなジャンプ競技は、銅メダルを3つもとって、いよいよラージヒルだ。

それぞれの選手は、ずっとずっと長い努力をしてきて、夢に向かって挑戦する。

かっこいいなぁって思う。

年齢はだいぶ違うけど、そんなふうにずっと、死ぬまで挑戦を辞めたくないし、過去の経験を誇るのではなく、新しいことに進んでいく自分を褒めてあげたい。


そんなオリンピックを見ながらルームランナーを頑張る。

今年に入ってから1日もサボらず頑張ってる。

子供の頃から大学に至るまで、怠け者で有名だったし、それは親も兄弟も、友人でもみんな知っている。

そんな自分が、ルームラランナーを怠けなかったり死ぬまで挑戦しようなんてちょっと笑える。


中学校の同級生たちなんて、みんな立派になって、誇りを持って生きている人がたくさんいる。

ちょっと自分は遅れてしまった。

ずっとずっとたくさん怠けてしまったので、若い頃に頑張ることも挑戦もしなかったので、その分、今も1日12時間も15時間も働いている。

結構情けないし成功している同級生から見たら、いい年して何やってるんだって思われるだろう。


でも、そんな私に高校生や大学生たちがたくさん誕生日おめでとうのLINEをしてきてくれる。

長坂塾に向かういつもの道。

この道を通るのも、あと何年続けることができるだろうか?

希望は有るだろうか?

ちょっとしたさりげない会話の中に、きっと素晴らしいものが詰まっている。

冬に雪が降っても、それは素晴らしい出会いだったりする。

5年前に比べたら、だいぶ姿勢も直したし、ちょっとはいろんなことを努力できるようになった。

ひどい人間が、少しはまともになっただろうか?

5年前の自分にそんな報告をしたい。

そんなことを思う誕生日。

本当に情けない


ある県立高校の生徒から聞いた。

学校の志望理由書と小論文の指導について。

とてもじゃないけど、本気で指導をやってると思えない

実は指導ができないし、でも指導してるふりをしている。

恥ずかしくないのだろうか?


生徒全員にとにかく何でもいいから志望理由書を書かせる。

もちろん全力でテンプレートだ。

それを回収して、

「プロの志望理由書指導者」

外部の人に添削してもらうそうだ。

もちろん、そのプロの人と生徒は1回も対話をしないし、生徒のことを何も知らない。

じゃあどうやって添削するのか?

もちろんテンプレートに合わせて添削をする

つまり

「みんな同じだ」

それでもプロの方はビジネスなのである意味うまくやっている。

そんなのばかりだ。

問題なのは、そんなプロに丸投げをして、あたかも指導しているふりをしている教員だ。


厳しい言い方だが、

恥ずかしくないのか?

後ろめたくないのか?

それで個性的な志望理由書が本当にできると思ってるのか?

それを良い指導だと本気で信じているのか?

生徒の人生に役立つと心から疑問がないのか?

もし何の疑問もないようだったら、今度はそれは能力としておかしい。

こんな話は本当によく聞く。


志望理由症を指導するとは、

その生徒と本気で向き合って、

その生徒に寄り添い、

その生徒の人間性や個性を尊重し、

何度も何度も対話を繰り返し、

間違ってもテンプレートに陥らず、

ネット上で見たコツなんかに頼らず、

何より自分で考えて指導することでは無いのか?

本当に本当に自分で考えてますか?


これを読む学校の先生なんていないと思うけど、本当に本当に真面目に教育に従事しているのであれば、もっと真面目にやろう。

あまりにおかしい。


元教員の言葉なんて耳に届かないと思うけど、こんな古臭い教員は、少なくとも、そんな指導してるふりはしない。


小論文指導するのであれば、自分の教科を積み上げてきたように、まずは小論文自体と自分が向き合おう。

1年間に、最低でも100や200は小論文の問題を解こう。

どんな初見の小論文でも、生徒の目の前で、良き考え方や、良き論理の構築を見せながら、それでいいって生徒を納得させる技量を身に付けよう。

指導とはそれからだ。

そんな時間は無いって言うんだったら、そもそも指導しちゃだめだ。


私はそんなにおかしいことを言っているのだろうか?


保護者の皆さん

高校生の皆さん

こんなこと言ってはなんだが、

「指導してるふり」

に騙されないように気をつけよう。

これは塾の指導でもみんな同じだ。

「とりあえず春休みに小論文の動画の講座を受講して下さい」

こんなのはただの金儲けだ。

そんなんで小論文に絶対に必要な批判的思考力や論理力が上がったら驚きだ。

そんなことが起こるわけがない。


最も話をしてくれた高校生は言っていた。

「先輩から聞きましたが、あんな指導は何も役に立たないから、気をつけろと言ってました」

生徒は見抜いている。