対話とは相手を説得するディベートとは異なる。
もちろん、授業中に先生が質問して、生徒が正解を答えるのも対話ではない。
若者のコミュニケーション能力を低くない。
ただ、小さい頃からの教育で「間違い」を恐れて、「正解」ばかりを求める。
考えると称しても、ほとんどが最初から「正解」があり、その上を歩いて行かなければならない。
だから、会話と対話の区別がつかなくなる。
対話とは疑問の連続であり、他の人が見えることがない世界を発見し、それを解決することで、また新しい疑問を見つける。
これがクリティカルな世界である。
クリティカルはあんまり効率性は良くないし、目の前の暗記型のテストには役に立たないかもしれない。
でも多様な人と共感(エンパシー)の可能性は高くなる。
小論文を書く上で、このクリティカルを学ばなければ、小論文に書く内容は「正解」はばかりになり、「コツ」なんてものが、考えになってしまう。
対話は学びの楽しさであり、未知である。
今日は千と千尋の神隠しがテレビで放映されていた。
主人公のせんはとってもクリティカルだ。
絶望や恐怖を、絶望や恐怖として受け入れるのではなく、希望や愛として考える。
私たちの世界は、何かで間違えれば、せんの両親のような選択をしてしまう。
目の前のおいしそうな食事を、何の疑問もなく食べ続ける。
それは、何だか違うような気がする。
そこで立ち止まって、考えることができれば、正解とは違うものを見ることができる。
そんな疑問を育てていくのが対話である。
去年、中学受験の指導をされている方から、中学受験にクリティカルは必要ないと教えていただいた。
さらに中学受験をする保護者の方は、クリティカルよりもわかりやすい偏差値を重視していると教えていただいた。
そうなんだろうと思う。
確かにそれなら対話が必要がない。
小論文でも、対話をしない添削指導だけ、それも決して少なくない。
だから
もしかすると、クリティカルカルな対話は、社会で必要とされてないのかもしれないし、ましてや教育とは逆行してるのかもしれない。
昔はそれと対立していたけど、今は、それも1つの選択肢だと思う。
選択肢がある社会は良い社会だからだ。
千と千尋の神隠し
こんな物語をどうやって考えるだろうか?
たくさん暗記したからだろうか?
それともみんなで対話をして、クリティカルに見えない世界を見たからだろうか?
科学の世界の文学の世界のアニメの世界も、みんなクリティカルだ。
戦前に軍部の力が強くなり、戦争に正義がある時代に、反戦を唱えることが命の危険が大きくなったとき、政治家の斎藤隆夫は、最後まで、その節を負けず、当時としては、夢物語であり、お花畑であり、非国民だと思われる平和を希求した。
選択肢のない世界に平和を考え続けた。
そういうすごいなと思う。
そんな彼は、国会で演説をする。
それはきっと対話であろう。
その先に、きっと明るい未来があるような気がしてたまらないのである。
だから今年もたくさん対話をしようと思う。











