虹の色を、一色だという人が、いるかもしれない。


私はちゃんと見たことがない。


でも、きっと、三色くらいには見えるのではないかと、


そういう想像しています。




気持ちが落ち込むと、目の前の世界を、


ひとつの色で見てしまうような、


そういうことがあるのです。




苦しいことがあると、私はそれを、


「死にたい」と表現してしまうのです。


本当は、もっとたくさんの「色」があってもよいと思うのに。




それが見分けられるようになると、


きっとそれは、「死にたい」の色ではなくて。


だって、そういう私が、それでも生きているわけですから。




そう、三色くらいはあっても、良いのかもしれません。


だれも教えてくれないのですから、


自分で、ちゃんと見なくてはいけないのですね。





 大学に入ってすぐに、教授に声をかけられて、研究について話すようになって。それは

簡単に言えば、数学の足し算や掛け算を『落ち葉が地上にふりつもる』ように考えるっていう

ことなのだけど、その比喩は好みじゃなかった。先生は少し、ペシミスティックだったのかも。

みんなは『層様フラクタル操作』って言う。まあ、名前はどうでもよくって。


 当時この学問は、構造生物学や巨大分子を研究する化学者、言語哲学者と、

もちろん数学者にも、とても注目された話だった。だから僕は、すぐに層様フラクタル操作の

適用条件の分類を証明して、その他にも層間射影の一般化とか、境界の二重化による

特異点列の回避とか、そういう細々したことを証明して、劇的な成果を上げたんだ。

もう論文にまとめる時間が無いくらい、幾重にも証明が頭に浮かんできて。


 しばらくして気付いたら、この分野から研究者が激減し始めてた。
 たしかに、哲学や生物学や化学の分野に人たちが扱えるような、「簡単な」成果が出るには、

この分野は既に深くなっていた。それは仕方が無くって。でも、仲間の数学者から、

「層様フラクタルには近づかないほうが良い」という噂があるって、聞いたんだ。


 僕がこの分野の全てを食い尽くしてしまうと思われてるって。
 でもこの表現も、それほど刺さってこなかった。誉め言葉に聞こえるし。


 辛かったのは、「君はこの分野を殺してしまうね」って、言われたことで。
 
 新しい学生たちも、層様フラクタルを学ぼうとしなくなった。僕もそのうち、別の分野に移った。

ちょっとね、寂しくなったっていうのかな。研究者の激減は、この分野が枯れてしまったからでは

絶対にない。それは、誰よりも僕が保証する。

 研究する余地も、興味深い問題も、まだまだたくさん在る。


 だから、誰かが遊びに来てくれたら、僕に声をかけて欲しいなぁ。どうやってここに来たのか。

どこが好きなのか。何が疑問で、どこへ行こうとしてるのか。そうやって、たくさん質問したく

なるかもしれない。まだ、分からないけどね。
 一人で歩きたかったら言ってほしい。そう言ってくれることだって、僕には嬉しいんだ。

 それだけできっと、どこかで『落ち葉』を眺めている人がいるって、信じていられるもの。


 


悲しくなってしまうような状況が、
考えてみると、何年も前、5年くらい前の、
小さなほころびが大きくなったものだと気付いて、
もっと悲しくなる。


もうそれを過去に戻って直すことはできないし、
いまから清算するようなことも出来ないと、
思ってしまっている。



そういう時に生まれる、くやしい気持ちや、
誰かに向かって、口汚くののしってやりたいような気持ちで、
私はいつも、沈黙してしまう。


そう思っている私だけれど、

顔や仕草が沈黙してくれているか、

本当は見たことがなくて。



いつものようにしていながら、
なぜかお化粧の雰囲気が変わった人、
不自然に言葉をかけてくるようになった人、
心配なくらい、目の力が無くなってしまった人。


上手く沈黙するのは、本当は難しい。



今の私が嫌いではないし、特別直したいとも思わない。

そういう自分は、自分がいない頃から積み上がっていた何かの上に
生まれたのだから、もう仕方がない。


それくらいには、人生を肯定できるように、
私は積みあがっているのさ。




大学から帰ってくると最寄りの駅に着くのは、
だいたい夜の9時ごろになります。


私は急いで駅ビルの地下の食料品売り場に行き、夕飯の材料を買って、
ターミナルから出ようとするバスへと走りこむのです。



その日、買い物袋を抱えた私の目の前に、
新しく出来たコーヒーショップがありました。


小さなお店を、その時は女性が一人、カウンターの奥に。


お店を見せていただこうと、眺めていたら、
そそっと私の横に近づいたその女性が、
試飲用のコーヒーをくれたのです。



そのコーヒーは、私の知っているコーヒーではありませんでした。


その味は、もう「味覚」といってはいけないような、
体に沁みいるものなのです。本当のコーヒーって、こういうものなんだと、
その時はじめて知ったのでした。


バスの時間が近づいている私は、
軽く会釈をして、お店を出ていきました。


どうしたら、あんなコーヒーができるのでしょう。


今度コーヒーを買う時に、訊いてみようと思います。





 友達のユリエの弟さんは、子供のくせにどこか素敵な人でした。
 まるで何か、小説を読んでいるかのよう。


「姉ちゃん、きれいじゃん」
 ユリエ(と私)の卒業式で、彼はそう言いました。
「少し歩こうよ。ちょっと、二人で歩いてきて良いですか」
 彼は私にそう言うと、ユリエと行ってしまいました。
 まるで恋人みたいに。 


 別の時に、
「また背が伸びたね、もう少しで私より高くなっちゃうね」
 と言ったら、
「ホント、姉さんの背が低くて良かった。間に合った」
 と言いました。

 私は二人でいる時の彼らの表情が大好きで、その素敵さは

 他のモノや場所では、ちょっと見たことがありません。



 二年前に彼女が結婚して、続くように弟さんも一年前に結婚して、

 二人とも家族ぐるみでつきあうようになりました。



 私は時々、ユリエと当時のことを話したりします。
 子供ができて、毎日の生活をして、昔の気持ちを忘れていることに、

 ふと気付くことがあると、彼女は言います。


「それでも『忘れてしまった』ことは、まだ忘れてないんだよね。それは嬉しいけど、切なくもある」


 もうあの素敵さと同じものには出会えないかもしれません。それに出会うには、私も年をとってしまった。
 息子さんを抱える彼女の顔を見ながら、あらためてそう感じたのです。


私のそばにいる誰かさんは、食事をするのと同じように、

人と心の通じあうことを欲します。


ときどき、そんなに通じあいたいんだなぁって、呆れるくらいに。


お仕事にかかりっきりで気遣いを忘れていると、にわかに空間が歪んでくるのがわかります。磁場、オーラ、重力場……なんて、目に見えないものが体で感じられるくらいに、四方の時空がユラユラとしてきます。


私の気配が触ったりするたびに「ねえ、ねえ、なにか忘れてない?」というニュアンスをくれて、私に余裕がないと気づくと、はぁ~、と吐息をはいています。


犬を飼っていれば、時間稼ぎになったかもしれないのですが…。


誰かさんは、いつも誰かと心を通じあいたいと思っているのです。



それだけ焦がれていた時間がついに来て、私が「遊ぼうか」と言うと、誰かさんはケータイで友人に連絡をとりまくって、遊びきれないほどの人数を集めます。そして皆に会うころには、ちょっと鎮静。しばらく楽しく話をして、食事をして、何や彼や終わるとみんなを帰らせて、自分の部屋に戻ります。


ノブをつかむと、もうウンザリ、というふうでドアを開けます。その先にあるベッドの上で全てを忘れようとしているかのように。


私だって、ソファに横になっているだけで、何もかも忘れることができるかのような気がしてきます。


あんなに通じあいたがって、待ちに待って、みんなを呼び出して、話をして。それなのに独りでなくなると、つかれて、よわって、孤独になりたくてしかたない。



私もそうなのかなって、いつも思うんです。