つくづく『自分らしく』生きることが難しい世の中なのかな、と思うできごとが続く。

 

 

メディアには『多様性』『自分らしさ』という耳触りのいい言葉がありふれているにも関わらず、いざ『自分らしく』生きようとすると、『自己責任』という言葉が重く重くのしかかってくる。

 

 

理由はたぶん、世間が求めているものが『自分の理解の範疇を超えない程度の自分らしさ』だからだと思う。

 

 

『出る杭は打たれる』ということわざは日本だけかと思いきや、英語にも類義語があるらしいことから、ずば抜けた個性を持った人がやっかみの対象になるのは人類共通なのかもしれない。

 

 

人は昔からコミュニティを作って生活してきたことから、その輪から逸脱する人はコミュニティの存続を危ぶむ危険分子だと認識されてきた。

 

 

しかし、歴史を大きく変えてきたのも多くは『出る杭』たちだったことは、坂本龍馬や織田信長がそうだったことからも、必ずしも『危険』というだけで片付けてはいけないことだとも思う。

 

 

最近の風潮として、目の前に『出る杭』が現れた場合に、どうも過剰に反応しすぎなんじゃないか。

 

 

自分の常識とは違うからと、本来脅威になりうるはずのない杭に対しても、全力で攻撃しているように思えてならない。

 

 

スマホ、SNSという存在がそれを容易にしてしまっていることは想像に易いことだけれど、私たち人間には他の動物よりも高度な『理性』があるんじゃなかったか。

 

 

どうもスマホという文明の利器を手にした一方で、どこかに理性を置き去りにしてしまっているような気がする。

 

 

理性をフルに活用して考えてみれば、たとえ『出る杭』に遭遇したとしても、想像したり対話したりすることはできるはずだ。

 

もしあまりにも理解の範疇を超えていたら、距離を置いて冷静に考えてみることもできる。その結果、そのまま距離を置く選択をしてもいいと思う。

 

しかし、世の中の流れを見ていると、理性を介さない反射で人を攻撃しているように思えてしかたがない。

 

それだけ余裕がないのかもしれないけれど。それとこれとは別問題。

 

 

何かに対して憤りを感じたら、たぶんそれは自分自身が抱えている問題に対してであることが多い。

 

自分自身、自分の生活、将来に対する苛立ちやままならなさを、『出る杭』に投影し、非難することさえ正当化している。

 

『出る杭は打ってもいい』と言わんばかりに。

 

もう一度、理性のフィルターを通して考えてほしい。

 

ほんとにその杭は、あなたに対しての脅威でしょうか?

 

出る杭はサンドバックではない、ということをどうか忘れないでほしい。