「稲穂は熟すればするほど頭を下げる」ということわざがあります。 人格の成熟度を示し、ひいては人が生きる世の中を調和させる謙遜の美徳を、実に適切に表現している韓国のことわざと言えます。 しかし、自分を低めるということは、見栄えのよい美風良俗でありながら、その裏には人間の無限の可能性に対する真理が隠れています。
人間の無限の可能性と自分を下げるということ、果たしてその二人の間にはどんな道理があるでしょうか。 じっくり考えてみれば、自分を低める姿勢とは、真理に向かって魂の扉を開けるのと同じです。 下げるということは、自分自身を学びの場に立つようにして無限な発展可能性の機会を与えることですから。
また、自分を低めることができる人は、万物を師とすることができる広い器を持っていると考えられます。 その器は自分を下げるほど大きくなる器で、人間完成に向けた可能性としての器です。 万物から得る教えは万種の教えであり、その教えに開いているものは広い宇宙を抱えることができるといえます。 そのように無限の可能性の中に置かれた人間は、自分自身を低める態度を復して貴重に思うことができるのです。
反対に、教えの場で自分を高めようとすれば、たとえその地位が高く権威あるように見えても、その地位はもはや発展の可能性が開かれた場所ではありません。 権威が持つ最高という意識は、これ以上学ぶことがないという自慢だけが隠されているからです。 人間は誰も完全な存在ではないのに、自分に与えられた小さな能力一つで自分自身を高めようとするのです。 しかし、真理の前で人間の偉大さはその反対です。 下げるほど偉大になる理、まさにそれです。
人間が自分を低めることができるということは驚くべき能力でした。 真理に向かって自分を開き、その教えの中で理想に向かって無限に躍動できるからです。 そのような学びの姿勢は、自分を表に出さずに自分を物置きの下に置きますが、結局は自分自身を一番偉大な地位に立たせるのです。 謙遜の美徳はそうであるように、単なる見栄えのある礼儀ではなく、人間を完成に導く偉大な力だったのです。
