生と修行は遠くて大変な道です。 その道の真ん中で私たちは時折彷徨と向き合って挫折したりもします。 彷徨がもたらす煩悶と反抗の嵐に一人で苦しんだり、他人を戸惑わせたりします。 そのため、彷徨は人生と修行において乗り越えなければならない否定的な意味の障害のように映りやすいです。
しかし、実は彷徨は美しくて肯定的なものです。 逆説のように聞こえるが、考えを少しだけ変えてみると、私たちはここで新しい事実を発見することができます。 彷徨とは、人間の生きていることに対する強烈な証拠だという事実をです。 人間は何の理由もなくさまよっておりません。 機械のように繰り返される日常から創造の変奏曲に向けたきっかけのように、一人の命が新しい発展への熱望をまともに発現できない時に起きる竹の節と同じです。 迷いはマンネリズムに陥った無意味な日常の中で、人生の目的と動機に対する内面深い所での要求なのです。 彷徨とは、まさにその解答を探す美しい旅程であり、見掛けは正しい人生ではなく、人生の動機や目的で充満した生命力のある人生に向けたチャンスだということです。
迷いは自我の主体性に対する内面の深い要求でもあります。 彷徨が反抗心にも表出する理由がそれです。 生命のない機械は自我の主体性を見出すために反抗しないが、人間は生きている生命であるため、相手に自我の存在感を示すために反抗することができます。 そうであるように、反抗は失った自我の独自性と自ら立ち上がる内的な力を取り戻すためのもがきです。 また、私たちは普通言われた通りに従う子供を良い子だと思って従わないで反抗する子供を悪い子だと言います。 しかし、内面性が欠けた服従は、一人の人格を善のプログラムを入力した機械で作るに過ぎません。 むしろ、反抗した子どもが自我の力と主体性を保ち、善を実践しようとする意志を自ら持つ時、それが真の善に近いはずです。
何より重要なのは、彷徨というきっかけの中で、人生の本質と目的を省察し、自我内面の主体的な力を成長させようという努力がなければ、煩悶と反抗で表れる彷徨は、むしろ深まる沼になってしまうという事実です。 それで、美しい彷徨にはそのような自分の努力とその彷徨を暖かく見守り、励ます人の助けが必要です。 彷徨を否定的な目で見るようになれば、暖かい心と理性的な助言よりは強制と威圧で相手の行為を統制しやすいです。 それは早くて簡単な方法ではあるが、一時的なもので、迷いは解消されないまま自我の生動する力は凝ってしまいます。
人生と修行の中で、私たちはみなさまようの主人公になれます。 また、さまよう人をそばで見守って助けなければならない人になることもあります。 私が彷徨の主人公になったなら、その苦しさに対抗して人生を振り返る深い省察の契機にしなければならないし、私のそばの誰かが迷っているなら否定的な視線をおさめ、肯定の目で彼の美しい彷徨を見守りながら、暖かく真実の助言をしなければならないのではないかと思います。
「人間は努力する限り彷徨する」ゲーテの「ファウスト」の中で
