釈迦は菩提樹の木の下で解脱の境地に達して5週間そこで喜びに浸っていたという。 解脱とは,仏教で討ち,瞋,癡から離れて静かになった平静の境地を意味するが,そのように悟りに解脱した心は,煩悩の炎が消えて喜びと楽しさでいっぱいになるという。 修行の域に達した釈迦牟尼の喜びは,確かに私たちが一般的に言う喜びの概念では説明できない心の状態だろう。 しかし,現代医学ではそれについて,一つ注目すべき話がある。 それは別名"感動ホルモン"ともいう"didorphin"に関する研究結果である。
didorphinについて話す前に,まず私たちに慣れたendorphinについて見てみよう。 よく知られているようにエンドルフィンは,笑う時に脳から分泌される笑いのホルモンだ。 人間は眠っている中で五感の働きが沈潜し,それによって脳波がα派に変わり,安らかな安息に入る。 しかし,起きている時もアルファ波を維持する場合があるが,この場合の一つがendorphinが分泌される時だという。 endorphinが疾病治癒の奇跡を起こす理由は,まさにこの極度の安らかさによる。 また,endorphinは麻薬成分であるモルヒネより百倍も強力な鎮痛効果を持っていながら副作用のないホルモンで極限の苦痛と各種疾病から人間を保護する。
ところでdidorphinはまさにこのendorphinの4,000倍の効能を持っているという。 endorphinが笑うときに生成されるならdidorphinは感動と喜びの状態で生成されるという。 endorphinがガンを治療し、痛みを解消する効果があるなら、現代医学が新たに発見したdidorphinがエンドルフィンの4,000倍の効能があるというのは驚くべき事実でない可能性もない。
didorphinが感動と喜びの状態で生成されたら,その感動と喜びはどんなものから感じるのだろうか? それは人間がお互いに理解しあって愛しているときに感じるものであり,大自然の美しくて驚異的な姿から感じるものであり,芸術と真理が人間の魂の深いところで共鳴するときに感じるのだ。 愛と真理,そして存在する万物と宇宙という名前の芸術作品,彼らから人間は隠されていた神の生命水を味わうことができるのだ。
また,私たちはこのような現象の中で宗教と修行,そして芸術と学問の本質に対する省察も新しくするようになる。 神の無限な愛と真理の光を胸にしまい,それを学問と芸術の形態で表現し,修行の中で究極的に合一することは,人間が真に幸せになれる道,そして人間の内面にすでに隠された天国を見つける道であることを悟るようになる。 これは,人間の肉体が宗教と遂行,そして芸術と学問の本質に対する問いかけをダイドルフィンという物質を通じて,その答えが返ってくるのと同じである。
麦の木の下で解脱に至った釈迦牟尼の喜びの中で,一方ではdidorphinのイメージを思い浮かべる。 もちろん,大成人の悟りを肉体の中で起きる物質的作用で還元するのは無理かもしれないが,この中で私たちが考えることができるのは愛と真理の人生を生きるのは,確かに人間肉体の隠された力を覚ますということだ。 愛と真理の中で心身を安定させる勉強と遂行は,意識の現象として終わるのではなく,肉体の反応であるdidorphinの実際の作用の中で確認されるのだ。
追い求めるやり方は違うが,どうであれ人間は誰もが幸せを望む。 幸福の定義が少しずつ異なっても,幸せは常に人間の理想の中にある言葉に違いない。 そのような点において,ダイドルフィンに関する話は,明らかに私たちが度を越すことのできない重要な事実を抱えている。 物質的欲望とそれから派生した快楽に麻酔されていく人間の生に,愛と真理,そして遂行の生が韓国内に潜んでいる普遍的かつ理想的な幸福の可能性を考えさせるという事実だ。 手に取る物質的利益に向かって殺到する人に対し,ダイドルフィンは,愛と真理の人生が決して一つの素晴らしく,ほほえましい感傷にとどまるのではなく,精神の実質的な力であり,それが人間を肉体の隠された領域へと導くという事実を示すものだ。 愛と真理の感動を味わった人だけに開かれる,その天国の領域である
