私たちの日常はいつも誰かと向き合います。 一人でいるとしても,少なくとも自分と向き合う限り,対象になる可能性があります。 その対象と向き合う時,私たちは彼の良い姿よりは欠乏して足りない姿に雪がたくさん行くことになります。 そして,それを非難したり,陰で陰口を叩いたりします。 でも,人間は根本的に完璧ではありません。 だから人間が完璧でないということはむしろ自然なことであり,誰の不足である点に対して"あの人なんでああだ!"と非難する理由がなくなります。
人間の不完全さ,それは神がその欠乏の中に一つの美しさを隠しておこうとした意図ではないかと思います。 その美しさとは何でしょうか。 それは他人の不足な点を見つけ,その足りない姿を見せないように満たす時,花咲く温かい人情その美しさでしょう。 また,誰かが私の足りないところを見せないよう,常に埋めてくれていることに対する感謝の気持ち,その美しさでしょう。 そのように循環する無限の創造の関係の中で,人類はその時になってようやく完全なハーモニーを成すようになるのです。
その関係の中で,"私"という存在の真の意味と生の理由は,他人にあることが分かります。 その理由が大きくなっていくということは,私が無くなるのではなく,むしろ私の意味がより大きくなっていくことであり,私の存在がより具体的で明確化していくことです。 そのようにして国は存在の意味が深く広く大きくなり,万物と交わるなら,窮極的に"私"は,すなわち宇宙と一体になった存在と相違なくなります。
万物は皆欠乏した存在です。 その欠乏は力の論理によって決して弱点になってはいけません。 個々の人間が自分の存在の完成と存在の意味を見いだす貴重な機会になる必要があります。 私たちが目を覚まして接するすべての存在の欠乏の中で,お互いが人生の理由になる造花の美しさを築いていく生,考えただけでも微笑ましくて美しい生です。
