'大順真理会要覧'によると,慼は自分に対する他人の"恨"で寂しい感情を抱いたり,無念で無念な思いにされたりして,しこりが生じた時に発生する。一方,怒りの感情は"こんな数!"という納得できない状況に対する認識で起こる感情の表現である。 不当で悔しいという思いで怒りを表わすこともできず,表には出さないが,恨み深い心の中にしまっておくこともできる。このような側面から,憤りと怨恨は類似の原理で発生するとみられる。 原と怒りの関係については様々な解釈があり得るが,発生過程の面で類似性がある。ここでは,怒りに対する現代心理学的な分析を通じて,元の発生と解消に接近したい。

現代心理学者であるソスギュンは怒りの感情を1次、2車線分けて1回目の怒りは状況についた最初の解釈で行われとした。 "私は無視されている""とても不当""こんなことなんてありえない"などがそれに属する。 そして2回目の怒りは責任の所在、可能な対処行動、対処行動による予想結果などによる二次評価で行われる。 "ただ置かないぞ""おこられてやるぞ" 等がこれに該当する。一次的に経験した怒りの感情を解消せず,継続して心に留めることで,怒りの感情は増幅して後続事態につながるが,これは客観的で公正な対応を阻害する。

1次怒りが発生する状況についた最初の解釈は一次、2次怒りを発生させるかどうかを決定する非常に重要な瞬間だ。 憤怒が発生するきっかけはいくつかあるが,主に当面の状況が目標の成就や自尊心維持に脅威になるのかどうかの評価にかかっている。 つまり,私が大切にする価値の侵奪についての解釈に沿ったのだ。 したがって,一次的な憤りが発生する契機は,状況に対する解釈的基盤,すなわち,自分が大事にする価値観によって千差万別に変わるしかない。

自分の重視する価値が侵奪される時,怒らない人はいない。 一般的に自分が大事にするもので人格·生命·健康·財物などがある。 さらに,道人たちは海原(ヘウォン)相生,倫理,道徳などの価値を重視する。 一次的な憤りが理解し難い不当な攻撃から発生するとしても,それが不当な攻撃ではないということが理解されれば,怒りはなかなか起きない。 "過去に私が誰かにやったことが,今回こんどこうやってくるんだ"という認識があるならば,怒りはなかなか起きないだろう。 一次的に怒りが発生しても,解園共存と倫理,道徳などの真理に対する信頼は,二次的な憤りに繋がらないようにする。 "よし!","ただでは置かない"などではなく,"ここで我慢しても,元の悪循環は起こらない""和合のためには僕が我慢する","自分がやることも理由がある"などという認識が変化する。

憤怒発生の解釈的基盤となる価値観を変化させることで,元の発生を防ぐことができる。 価値観の変化が観点の変化で,これが再び認識と心の変化につながるのだ。

上帝は"元帥の恨みを晴らして恩人のように愛しなさい。 そうすれば彼も助けになって福を成すことになる。"(敎法1枚56節)とおっしゃっていた。 これは"�"を結ぶことも解くのも自分であることに気付き,自分が先に解いて相手は自ら解けるようになる,という意味である。 このように全てのことが心にかかっているのだ。 だからこそ悔しかったり,残念なことにあった時,胸の奥に刻んだ上帝礼の言葉を思い出し,相手を愛する心構えで対応するとしたら,恨む思いは起こらず,発生してもすぐに解消されるだろう。