面会 | 統合失調症との共同生活
精神科閉鎖病棟三階

ここは社会に出しておくのは危険だと判断された精神病患者達が隔離…もとい治療を受ける施設である。成人間近の少年から、定年過ぎの老人まで幅広く収容されている。個室からは不気味な呻き声が漏れ、備え付けられた一部の便器は意味を為していない。長い廊下を虚ろな目をした患者が徘徊し、広間では上機嫌な患者が我を語っている。
集団生活を送る適性があるようには見えないが、一人一人管理していたのでは予算も人手も足りなくなる。患者達を狭い集団部屋に押し込んでおく他無いのだ。その様はまるで下品な動物園にでも来ているかのようだ。

今日、私はここに収容、いや…入院している大切な友人に会いに来た。彼がここに来てもう三年になる。
「文也くんお友達が面会にきてくれたよ。」
自室で天井を見つめる文也に看護師が声をかける。文也は無表情のまま、嬉しそうに呟いた。
「母ちゃんか?母ちゃん来てくれたんか。よかったねえ。よかったねえ。」
長い投薬治療の副作用により、大分滑舌が悪くなった。聞き取るために注意を向けておかなければ、何を言っているのか分からない程に。文也はにやにやと気味の悪い笑みを浮かべ、ぶつぶつと何かを呟きながら看護師の後をついて行った。

私は別室で一人、文也を待っていた。差し入れにはコーラとスナック菓子を用意してある。昔からのよしみだ。具合が悪くなって入院していると聞けば見舞いに来るなんて当然のこと。そう、当然のことなのに…私はこの場所に面会に来るのが怖くて仕方がない。

「時間になったら声をお掛けしますね。」
「はい。ありがとうございます。」
面会時間は三十分と決められている。ここに来るのはこれでもう六度目になる…多少の緊張はあれど、最初に感じた動揺はもう無い。餌を求める鯉のように口を開閉し、涎を垂らしながらこちらを覗き込む者。何もない空間に向かって正座をし、漫談でもしているかのように楽しそうに話す者。…この光景も既に見慣れてしまった。驚きも軽蔑も哀れみも…何の感情もない。顔を出した文也を見て、またやつれたな…と私は感じた。
実際には体重の変動は無いし、いつも見ている看護師からしたら何の変化も無い。単純に、会えると想像している文也象が昔のまま過ぎるのだ。
「おう。元気か?これ食いたかったらどうぞ。」
「なんやお前?母ちゃんどうした?俺の母ちゃんどうしたんや。」
目の前に座った文也にスナック菓子を差し出すと、見舞いの品には目も向けず、不満げな表情で話し出した。どうやら今日は母親に会うつもりだったようだ。前回は神様がどうこう、その前は大事な家族である猫のニャンちゃんに会わせてくれと言っていた。文也は猫を飼っていたことはないし、動物が好きだという話も聞いたことがない。
人の記憶とは不思議なものだ。文也が猫を飼っていたと信じ込んで話すと、私もそうだったかのように混乱し始める。
「母ちゃん?家族に会いたくなったんか。久しぶりに会いたくもなるよな。」
文也の両親は幼い頃に離婚した。実の母からの虐待が原因で、文也は児童養護施設で私と共に育ってきたのだ。自分の両親を憎み、大人に敵対心を剥き出しにしていた文也の姿をよく覚えている。そんな文也が母ちゃん、か…私は切ないような、何とも言い難い気持ちになった。お互いを家族だと言い、兄弟のように二人で強く生きてきた。親なんかいらないと虚勢を張って、思い切り強がって生きて来たんだ。…母ちゃんねぇ。
「なんやと?!お前のせいやろ!お前が俺の母ちゃん殺したんやろ!!毒まで持って来て俺も一緒に殺す気かああ!!!」
…文也は本当はずっと、自分の母親の姿を追い求めていたのだろうか。二人で馬鹿をやって笑っている時も、女に振られて私を頼ってきた時も。

患者は突然暴れ出すこともあるため、面会室のドアは用心のために開いたままになっている。そのために怒鳴り声を聞いた看護師がすぐ様部屋に入り、何も言い返せずにいる私をよそに文也をなだめてくれた。
「文也くんどうしたー?なんか嫌なことあったかあ。」
「こいつやねん!こいつが殺したんや!!俺の大事な家族を返せええ!!」
「そうかあ。すぐにお巡りさん呼ばないといかんな。危ないから文也くんは部屋に戻ってようか。」
ガリガリに痩せ細った文也はいとも簡単に取り押さえられ、施錠扉を抜けて自室へと連れて行かれた。その様子を相変わらずにやにやとした笑みを浮かべたまま眺める者、何の用も無いのに後をついて行く者…。こいつらは一体何を考えているんだ。何があってそんな訳の分からないことをやっているんだ。どうして…。…文也はこんな人達の中に混ざって人生を終えていい人間じゃない。妄想に逃げるような、常識も分からなくなるような…こんなのは本当の文也じゃない。
「すいません、今日調子悪いみたいで。日を改めてまた会いに来てあげてください。」
「そうですね。あ、これ毒って言われちゃったんですけど文也に差し入れなんでお願いします。いらなそうなら捨ててください。」
私は何も気に留めていないかのように振る舞い、病棟を後にした。
精神病患者を抱える家族、恋人、親友…皆、最初は私に似た思いを抱くはずだ。こんなのは本当の姿じゃないと。他の入院患者を見て、自分の大切な人があそこまで酷くなるはずはないと…そう思うはずだ。大丈夫。ちゃんと治療を受ければ…、その健気な思いはことごとく圧し折られていく。

私のかすかな期待、望みも、同様に折られていった。もう文也は私を必要としていない。今の文也の世界には…私の知る過去は存在していない。…もうここに来ることはない。私は目の前の現実を受け入れ、文也を忘れることにした。私は自分の家族を、兄弟を…一番の親友を、見殺しにすることに決めたのだ。