今日は色々なところでとても悲しい話を幾つも、聞いたり見たり、感じた日だった。
……。
いつでも……死の淵で生きている。
それはいつでも死に飛び込めるようにではなくて、死に迎えられるとき、しっかり顔向けできるよう、死に恥じない生き方をするよう、死の声を聞くため。
わたしにとって「一生けんめい生きること」は、死の淵を歩いてその声に耳をすますこと。
その真意や意思に似たものを生きて識ること。
最愛の死にいつか愛される、誇れる生き方をすること。
誠実に、真摯にしっかりと生きることは、死を識り、繋がるよう努めること。
生きることばかりでは、生のことばかり考えていては、わたしには、真摯に生きていることにはならない……もちろん死のことばかりでも。
そうして、死生に真摯に生きるよう努める中で、もしも必要より必要な、不可欠より不可欠な、自分の完成に欠かせない存在を同じ時間に見つけたなら、それは貴く唯一の手放してはいけない機会だ。
まだわからないけれど、一生に一度あるかどうかだ、きっと。
その存在を認知したときはじめて自らの中に同形の空洞があることを知る。
それが、それしか嵌まらない空洞が自らの中にあることを。
今まで生きて感じていた違和感の正体を。
その存在と共にあることができたとき……共にあるという言葉で足りない……一心同体となって、自らが完成する、きっと。
本当にそう思える存在ならひかれあう、出会う前にそれぞれどう生きていたとしても、出会えたなら形や速度はどうあれきっと……いつかは共にあるんだと思う。
これを恋と呼べる?
「ちょっと良いなって思っているんだよね」なんて表せるか?
「恋人と結婚相手に求めるものは違うじゃない」なんて言葉で?
そんな話はしていない。
こんなこと感じたことがないから、例えば、2年前のわたしから見たらさぞかし不気味な、意味のわからないことを言っているかも。
今思うと当時理解のできなかった幾つかの文学には、このようなことが書かれていたように思う。
初めて感じることだから、感じるまま表すことしかできない、まだ。
……えっと……。
って、死の淵から。
真摯に生きることは死に恥じない生き方をすること。
そしてそれは、唯一無二の存在と出会うことができたなら疑ったり逃げたりせず向き合い、自他に対して正直に求めることでもある。
その糸をしっかり取って、どんな恐怖にも離さず手繰ること。
同じ時間を同じく生きる存在を信じること、自らを託すことはとても怖いことだね。
失うこと……自らの中にまた空洞がうまれることは。
それでもやっぱり、それを理由に道を違えるのはどう考えても、何のメリットも無いね。深く傷付くリスクよりも、ずっと何のメリットも、無い。
直接は関係ないことばかりだけれど、とても悲しい話が幾つもあって……改めて真摯に生きようと。
しっかりと死の淵を歩いて、真に特別なひとつの存在に出会えたなら、覚悟を決めてそれ以前/以後であると自覚する。
きみに出会う前と、後だ。
今まで抱えて生きてきた違和感が、きみの形の空洞だと認識できた、その後の人生だ。
わたしも、ちょっとこんな、今まで言ったこともないようなことを言っている自分がいささか怖い、近ごろ。
だけど確固たる気持ちで感じるから、書いておく。なんだかまずい啓示の人みたいだな〜。
悲しみに、いつもより大きく、祈ってから眠る。
祈って、眠る。