日本兵 戦場伝説 | 世界珍ネタHunter!

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第二次大戦に於いて戦場伝説を残した舩坂 弘は、第59連隊第1大隊第1中隊の擲弾筒分隊に配属され、アンガウル戦時には15人を率いる擲弾筒分隊長としてこれを指揮する事になる。戦況の悪化により、1944年3月1日、第59連隊にも南方作戦への動員令が下る。南方動員令が下ったとき舩坂は除隊を目前していたが、日々悪化する戦況下では除隊も許されず大隊主力と共にアンガウル島に派兵される事になり、後に上陸する米海兵隊と死闘を繰り広げる事となる。このマリアナ戦役最後のアンガウルの戦いで、この戦いで舩坂はハリウッド映画に登場する「ランボー」さながらの超人的な行動で多大な戦果を上げることになる。一説では擲弾筒および臼砲にて米兵を200人以上殺傷したとも言われている。水際作戦により中隊が壊滅する中、舩坂は筒身が真赤になるまで擲弾筒を撃ち続け、退却後は大隊残存兵らと共に島の北西の洞窟に籠城し、ゲリラ戦へと移行した。米軍の上陸3日目には、舩坂も米軍の攻勢の前に左大腿部に裂傷を負う。米軍の銃火の中に数時間もの長い間放置され、ようやく頼みの軍医がやって来るも、被弾した傷口を一目見るなり、戦場では治療の施し様が無いと判断され自決用の手榴弾を手渡しその場を去ってしまった。しかし、瀕死の重傷を負いながらも舩坂は足を包帯代わりの日章旗で縛ることで止血し、夜通し這うことで洞窟陣地に帰り着き、翌日には左足を引き摺りながらも歩けるまでに回復している。その後も瀕死クラスの傷を何度も負うも、動くことすらままならないと思われるような傷でも、不思議と翌日には回復しているのが常であった。 これについて舩坂は「生まれつき傷が治りやすい体質であったことに助けられたようだ」と、その事由を述べている。この様な舩絶望的な戦況にあってなお、舩坂は米兵から捕獲した拳銃の3連射で3人の米兵を倒したり、鹵獲したトプソン短機関銃で3人を一度に倒し、左足と両腕を負傷した状態で、更に銃剣で1人刺殺し、付近に短機関銃を手にしていたもう1人の米兵に素早く短剣を投げて顎部に突き刺し、正に映画「ランボー」の如く奮戦を続けていた。実際、舩坂の姿を見た部隊員たちから、不死身の分隊長、鬼の分隊長と形容する声が聞かれるほどであった。しかし、食料も水もない戦場での戦いは日本兵を徐々に追い詰めて行き、洞窟壕の中は自決の手榴弾を求める重傷者の呻き声で、生地獄の様相を醸し出していた。弘自身も腹部盲貫銃創の重傷を負って這うことしか出来なくなり、その傷口から蛆虫が涌くのを見るにつけ、蛆に食われて死ぬくらいなら最早これまでと、ついに自決を決意している。しかし、思いに反して手榴弾は不発であった。舩坂は暫し茫然とし、自決未遂という現実に、なぜ死ねないのか、まだ死なせて貰えないのかと、深い絶望感を味わったという。
戦友も次々と倒れ部隊も壊滅するに及び、舩坂は死ぬ前にせめて敵将に一矢報いんと米軍司令部への単身斬り込み、肉弾自爆を決意する。手榴弾6発を身体にくくりつけ、拳銃1丁を持って数夜這い続けることにより、前哨陣地を突破し、4日目には米軍指揮所テント群に20メートルの地点にまで潜入していた。この時までに、負傷は戦闘初日から数えて大小24箇所に及んでおり、このうち重傷は左大腿部裂傷、左上膊部貫通銃創2箇所、頭部打撲傷、左腹部盲貫銃創の5箇所であり、さらに右肩捻挫、右足首脱臼を負っていた。また、長い間匍匐していたため、肘や足は服が擦り切れてボロボロになっており、さらに連日の戦闘による火傷と全身20箇所に食い込んだ砲弾の破片によって、さながら幽鬼か亡霊のようであったという。
舩坂は米軍指揮官らが指揮所テントに集合する時に突入すると決めていた。当時、米軍指揮所周辺には歩兵6個大隊、戦車1個大隊、砲兵6個中隊や高射機関砲大隊など総勢1万人が駐屯しており、舩坂はこれら指揮官が指揮所テントに集まる時を狙い、待ち構えていたのである。舩坂はジープが続々と司令部に乗り付けるのを見、右手に手榴弾の安全栓を抜いて握り締め、左手に拳銃を持ち、全力を絞り出し、立ち上がった。突然、茂みから姿を現した異様な風体の日本兵に、発見した米兵は驚きの余りしばし呆然として声も出なかったという。
米軍の動揺を尻目に弘は司令部目掛け渾身の力で突進するも、手榴弾の信管を叩こうとした瞬間、頸部を撃たれて昏倒し、戦死と判断される。駆けつけた米軍軍医は、無駄だと思いつつも舩坂を野戦病院に運んだ。このとき、軍医は手榴弾と拳銃を握り締めたままの指を一本一本解きほぐしながら、米兵の観衆に向かって、「これがサムライのハラキリだ。日本のサムライだけができる勇敢な死に方だ」と語っている。しかし、舩坂は3日後米軍野戦病院で蘇生する。当初は情をかけられたと勘違いし、周囲の医療器具を叩き壊し、急いで駆けつけたMPの銃口に自分の身体を押し付け「撃て!殺せ!早く殺すんだ!」と暴れ回った。この奇妙な日本兵の話はアンガウルの米兵の間で瞬く間に話題となり、伝説と化した。その無謀な行動に恐れをなしながらも、大半はその勇気を称え、「勇敢なる兵士」の名を贈ったという。元アンガウル島攻略米海兵隊員であったマサチューセッツ大学教授のロバート・E・テイラーは、戦後舩坂宛ての手紙の中で、「あなたのあの時の勇敢な行動を私たちは忘れられません。あなたのような人がいるということは、日本人全体の誇りとして残ることです」と、讃辞の言葉を送っている。
その後、数日の捕虜訊問を経て、舩坂はペリリュー島の捕虜収容所に身柄を移される。このとき既に「勇敢な兵士」の伝説はペリリュー島にまで伝わっており、米軍側は特に“グンソー・フクダ(舩坂は所属が判らぬよう福田という偽名を使っていた)”の言動・行動には注意しろと、最重要注意人物の筆頭にその名を挙げるほどになっていた。しかし米軍の捕虜となっても舩坂の闘志は衰えず、ペリリューに身柄を移された2日目には、瀕死の重傷と思われていたことで監視が甘く、米軍側の監視の隙を見付け素早く収容所から脱出すことに成功し1000メートルを潜んで行って日本兵の遺体に辿りつき、遺体が装備していた弾丸入れから小銃弾の火薬を抜き取って爆発物を作り、米軍弾薬庫を爆破し破壊工作を行った。その後は、2回にわたって飛行場を炎上させることを計画するが、同捕虜収容所で勤務していたF.V.クレンショー伍長に破壊工作を阻止され失敗し身柄を拘束されグアム、ハワイ、サンフランシスコ、テキサス、と終戦まで収容所を転々と移動し、1946年に帰国した。





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