戦友も次々と倒れ部隊も壊滅するに及び、舩坂は死ぬ前にせめて敵将に一矢報いんと米軍司令部への単身斬り込み、肉弾自爆を決意する。手榴弾6発を身体にくくりつけ、拳銃1丁を持って数夜這い続けることにより、前哨陣地を突破し、4日目には米軍指揮所テント群に20メートルの地点にまで潜入していた。この時までに、負傷は戦闘初日から数えて大小24箇所に及んでおり、このうち重傷は左大腿部裂傷、左上膊部貫通銃創2箇所、頭部打撲傷、左腹部盲貫銃創の5箇所であり、さらに右肩捻挫、右足首脱臼を負っていた。また、長い間匍匐していたため、肘や足は服が擦り切れてボロボロになっており、さらに連日の戦闘による火傷と全身20箇所に食い込んだ砲弾の破片によって、さながら幽鬼か亡霊のようであったという。
舩坂は米軍指揮官らが指揮所テントに集合する時に突入すると決めていた。当時、米軍指揮所周辺には歩兵6個大隊、戦車1個大隊、砲兵6個中隊や高射機関砲大隊など総勢1万人が駐屯しており、舩坂はこれら指揮官が指揮所テントに集まる時を狙い、待ち構えていたのである。舩坂はジープが続々と司令部に乗り付けるのを見、右手に手榴弾の安全栓を抜いて握り締め、左手に拳銃を持ち、全力を絞り出し、立ち上がった。突然、茂みから姿を現した異様な風体の日本兵に、発見した米兵は驚きの余りしばし呆然として声も出なかったという。
米軍の動揺を尻目に弘は司令部目掛け渾身の力で突進するも、手榴弾の信管を叩こうとした瞬間、頸部を撃たれて昏倒し、戦死と判断される。駆けつけた米軍軍医は、無駄だと思いつつも舩坂を野戦病院に運んだ。このとき、軍医は手榴弾と拳銃を握り締めたままの指を一本一本解きほぐしながら、米兵の観衆に向かって、「これがサムライのハラキリだ。日本のサムライだけができる勇敢な死に方だ」と語っている。しかし、舩坂は3日後米軍野戦病院で蘇生する。当初は情をかけられたと勘違いし、周囲の医療器具を叩き壊し、急いで駆けつけたMPの銃口に自分の身体を押し付け「撃て!殺せ!早く殺すんだ!」と暴れ回った。この奇妙な日本兵の話はアンガウルの米兵の間で瞬く間に話題となり、伝説と化した。その無謀な行動に恐れをなしながらも、大半はその勇気を称え、「勇敢なる兵士」の名を贈ったという。元アンガウル島攻略米海兵隊員であったマサチューセッツ大学教授のロバート・E・テイラーは、戦後舩坂宛ての手紙の中で、「あなたのあの時の勇敢な行動を私たちは忘れられません。あなたのような人がいるということは、日本人全体の誇りとして残ることです」と、讃辞の言葉を送っている。
その後、数日の捕虜訊問を経て、舩坂はペリリュー島の捕虜収容所に身柄を移される。このとき既に「勇敢な兵士」の伝説はペリリュー島にまで伝わっており、米軍側は特に“グンソー・フクダ(舩坂は所属が判らぬよう福田という偽名を使っていた)”の言動・行動には注意しろと、最重要注意人物の筆頭にその名を挙げるほどになっていた。しかし米軍の捕虜となっても舩坂の闘志は衰えず、ペリリューに身柄を移された2日目には、瀕死の重傷と思われていたことで監視が甘く、米軍側の監視の隙を見付け素早く収容所から脱出すことに成功し1000メートルを潜んで行って日本兵の遺体に辿りつき、遺体が装備していた弾丸入れから小銃弾の火薬を抜き取って爆発物を作り、米軍弾薬庫を爆破し破壊工作を行った。その後は、2回にわたって飛行場を炎上させることを計画するが、同捕虜収容所で勤務していたF.V.クレンショー伍長に破壊工作を阻止され失敗し身柄を拘束されグアム、ハワイ、サンフランシスコ、テキサス、と終戦まで収容所を転々と移動し、1946年に帰国した。
