川崎重工 | 世界珍ネタHunter!

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川崎正蔵が明治11年4月、意外にも東京築地に川崎造船所を創設したのが始まりだと言う。それ以後、船舶や海洋機器の製造を手掛け、明治14年3月には兵庫県へ移転し大正7月以降は自動車や飛行機の試作研究が行われた。昭和になると各工場並びに部門の細分化が始まり昭和12年11月には、陸軍制式戦闘機川崎92式複葉機が川崎BMW・水冷V型12気筒500馬力を搭載して完成した。最大速度330㎞/hを誇った。このエンジンの発展型、川崎特殊700馬力エンジンは、東大航空研究所設計の航研機体に搭載されて昭和13年5月13日~5月15日の3日間にかけて、木更津・銚子・太田・平塚・木更津の周回コースにおいて、FAI (国際航空連盟)が規定する4種目のうち2種目で世界記録を樹立した。周回航続距離(11,651.011 km)と10,000 km コース上での速度記録(186.197 km/h)を樹立する程優秀だった。因みに当機は戦後解体され羽田空港近くの地中に埋められたというのが通説となっている。明石工場が開設されたのは昭和15年7月で、さっそく空冷星型エンジン工場と水冷エンジン工場が稼働、隣接地には明石飛行場も加えられた。太平洋戦争開戦後は、ライセンス契約したダイムラーベンツDB601液冷倒立V型エンジンと3式1戦闘機 飛燕や双発2式複座戦闘機 屠龍等の機体が生産された。昭和20年に入ると川崎の工場も軍需工場として空襲の標的になり生産設備の損害を回避する為に周辺各地に工場設備の疎開が行われた。昭和20年8月15日、敗戦により太平洋戦争が終結すると軍需工場として生産を行っていた工場は、連合国軍総司令部(GHQ)により賠償指定工場となり、戦争の賠償義務により会社の設備一切は全財産物件の移動停止令により工場の操業は不可能となった。終戦後の川崎産業は長らく工場閉鎖されていたが、昭和20年12月に民需産業許可の申請を行い申請が許可されると歯車部門がいち早く操業を開始し、自転車や自動車部品等を手掛けた。経営的に踏襲するだけではなく、新たな飛躍の為に社名も昭和25年に川崎機械工業に改められた。優秀な技術を誇る技術者や戦時賠償の対象外として残された工作機械を活用し、各工場毎に民需品に着手、近畿地区5大工場の内、主力2大工場にて、小型エンジンやモーターサイクルの生産へと進出する事になり開発に着手した。
液冷エンジンの疎開工場だった大阪府高槻市の高槻工場では昭和25年に4サイクルエンジンを手掛け、兵庫県滝野町の歯車工場では昭和27年に2サイクルエンジンが開発された。終戦迄飛燕や屠龍等の陸軍槻を生産し、太平洋戦争当時、世界のトップレベルの航空機と比べても遜色なかった高い技術力と航空機の開発力、製造を基にして培われた優秀な技術と経験が、戦後の川崎にも残されていた。復興への足掛かりとしてモーターサイクル用エンジンの開発と製造にとりくみ、やがて明石工場で一貫生産がなされるまでに事業の発展を見る。


次回へつづく





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