
橘花が木更津基地の上空を初飛行したその夜、宿舎で推進機部長、種子島大佐、高岡迪少佐、永野治技術中佐等と心ばかりの祝杯を挙げた。芹沢技術中佐も木空庁舎で関係士官と共に乾盃をした。軍令部参謀国定謙男少佐が届けてくれたサントリーウイスキーも、飲み干されたのか宴の後には一本も残されていなかった。初飛行を見届けた眞乗坊技術大尉は、急いで霞ヶ浦の本廠へ初飛行成功を知らせる為に急いだ。しかし、空襲等の影響で一空廠へ着いたのは翌8日の夜だった。報告や事務処理等を行った後、大尉は再度木更津へ向かった。初飛行から3日後の11日、橘花は試験飛行を行ったが、この日の飛行は残念ながら離陸に失敗し、滑走路末端をオーバーンして海辺へ突っ込み機体は擱座した。原因はRATOを使い離陸加速中にテストパイロットとして搭乗していた高岡少佐が機体推力の減少を感じ取り離陸中止しようとしたが減速出来ずにオーバーランしたのが原因とされている。午後4時頃から擱座した機体の引き上げ作業が始められ、芹沢技術中佐も引き上げ作業に加わりズブ濡れになりながらもこれを手伝った。折からの海水は次第に満ちて来て、海面が胴体の下位迄に達した。回収後は、オーバーランして擱座した機体を付近の掩体壕へ格納され、すぐさま機体とエンジンの潮出しを行い、直ちに2号機の整備を行ったが、それから4日後には終戦となった。 戦後、木更津空が米軍に報告した引渡目録には橘花の名が無く引き上げ作業後の1号機は行方不明となっている。但し、橘花の開発試験支援していた角信朗大尉の証言によると「橘花は引揚げる余裕もなく潮が満るともに海面下に沈んでしまった。」とされている。潮の流れが非常に早く無い限り例え満潮で海面下に海没しても干潮になれば機体は又海面上に現れる事から機体は引き上げられ回収されたと考えて妥当だと思える。第1回の試験飛行を撮影した映画フイルムは現像後1回だけ映写し、国内初のジェット機の初飛行を写しだしたが終戦と共に焼却処分され現存していない。

