昭和20年5月、九州上空にて、海軍戦闘機「紫電改」の体当たりによって墜落したB29爆撃機の搭乗員12名。彼らは大きなケガを負うこともなく、捕虜になった。しかし、戦局の悪化と度重なる空襲により、捕虜の処遇に困っていた西部軍は捕らえた搭乗員を処刑することにしたが、実験材料として使ってもよいと西部軍司令部は、九州大学医学部OBの小森軍医と石山教授に処置を一任する。やがて、捕虜になったB-29搭乗員達8名が九大の解剖室に移送された。昭和20年5月17日、石山教授らは2人の捕虜の片肺を全摘出する。2人の捕虜のうち1人は、搭乗機から脱出し地上に降りた際に住民に撃たれた散弾が肺の近くに残っていたが、もう1人はまったく無傷だった。5月22日には、捕虜2名のうち1名に、胃全摘手術と、大動脈を圧迫して止血し心停止させた後の開胸心マッサージと、心臓手術を行った。残る1名は上腹部を切開し、胆嚢を摘出、肝臓の片葉を切除している。5月25日には1名の捕虜に脳手術(三叉神経遮断)を行った。6月2日には捕虜3名のうち、1名には右股動脈から約500ccを採血したのち代用血液約300ccを注射。1名には肺縦隔手術を実施。残る1名には胆嚢摘出、代用血液200cc注射、肝臓切除、開胸心臓マッサージ、心筋切開および縫合、大動脈圧迫止血を行っている。こうして捕虜となった全8名の捕虜が人体実験材料にされ殺害された。
戦後GHQは、この一連の実験手術による殺害を捕虜虐待として、横浜で行われた戦犯裁判で裁いた。小森見習軍医は昭和20年6月の福岡大空襲の際に焼夷弾の直撃を受けて重傷を負い、翌月に死亡していた。石山教授は拘置所に収監されたが、取り調べ中の1946年7月に獄中で自殺した。昭和23年8月28日に下された横浜裁判の判決は、2人の西部軍幹部と3人の医学部教官を絞首刑、1人の軍幹部と2人の医師を終身刑、5人の軍幹部と8人の医師と看護婦長1人を重労働刑とした。しかしながら、朝鮮戦争が勃発したことにより減刑が行われ、結局死刑に処せられた被告はなかった。