【ツクシ北部はいつ大和朝廷の傘下に入ったか】
日本書紀の信憑性を考えるために、
津田左右吉氏の『古事記及び日本書紀の研究』を見てきたが、
「総論二」のタイトルが
「われわれの民族とシナ人及び韓人との交渉」
という興味深いものになっていて、
津田氏は、
卑弥呼の国(邪馬台国)がツクシ北部の山門にあったことは間違いがないとして
大和朝廷が韓半島および中国と交通を始めたのはいつからか、
という問題に発展させている。
その経緯について津田氏は次のように説明している。
「四世紀のはじめからはじまったシナの北部における
鮮卑の活動が半島の大混乱を誘致して、
その結果、半島においては高句麗、百済、新羅の三国鼎立の形成を現出し、
これと同時にわがヤマト朝廷もツクシの北部を領有し、
さらに半島と直接の交渉を生ずるようになったのである。」
としている。
津田氏は、
古事記(応神記)に百済照古王との交渉が記されているので、
それ以前にヤマト朝廷がツクシ北部を制圧していないと
ヤマトと百済の交渉が成立しないことから、
大陸及び半島の
「五胡十六国の動乱」(津田氏は鮮卑の活動と表現している)によって
半島で三国が鼎立状態となったことと時を合わせて、
ヤマト朝廷がツクシを制圧したと推論しているのである。