【外圧と権威に弱いのは今も昔も変わらない】

蓑原俊洋氏は、

「白村江の戦いは日本人にとってどのような意味があったのでしょうか。」

と質問している。

それに対して本郷和人氏は、

白村江の戦いに始まる外圧が日本の基礎を固めたととらえている。

その見解に両者は一致点を見出して、

蓑原氏は外務官僚の言葉を例に出して、

日本は今でも自ら変わろうとはしないで、

外圧がないと変わることができない、

と述べる。

本郷氏は、

日本ではエリート官僚がイニシアティブをとろうとすると

周囲が足を引っ張ろうとするが、

世襲議員の提案だとやむを得ないと納得する。

それ以上に外圧には弱い国民性である、

と応じた。

蓑原氏は、

アメリカでもベトナム戦争以来

東部出身のエスタブリッシュメントエリートに対する信用が落ちて、

反知性主義の極致であるトランプイズムが台頭してきている、

と実状を語っている。

二人の話は白村江から大きく飛躍してしまっているが、

この項目の最後には、

「華道家元の〇代目です」

と言われて説得力を持つのは日本特有の現象で、

本郷氏は、

「そうした精神性がどこからくるのかわかりません。」

と、最後まで白村江と無関係の感想を述べている。

(考察)

航海技術がそれほど進歩しているわけではない時代において、

日本列島は絶海の孤島であり、

外国勢力に対しては天然の要塞に囲まれた地であった。

外国勢力が攻撃に必要な兵力を運ぼうとすると、

かなりの人数の漕ぎ手を用意する必要があったに違いない。

海を渡るだけで疲れてしまい、

とても戦いどころではなかったのではないか。

白村江の敗戦も戦い方が拙かったと言われることが多いが、

航海で戦意が衰えていたことも影響しているかもしれない。

しかし白村江で唐の海軍力を目の当たりにしたことによって、

危機感を募らせたことは容易に想像がつく。

山城や水城を急いで整備し直したり、

烽火台を造って海岸線の防備を固めることくらいはしたであろう。

しかし、朝鮮半島の戦禍が及ばないように、

飛鳥から近江へ遷都することが必要だっただろうか。

朝鮮半島情勢のことからみれば、

飛鳥だって十分要塞の地であることには変わりはない。

ここに大和一元主義の限界があることに

本郷和人氏さえも気が付いていない。

誰が考えてもすぐにわかりそうなことなのに・・・。

「日本は今でも自ら変わろうとはしない」

という蓑原氏の言葉に同意している本郷氏さえも、

古代史の伝統的な考え方から離れることができないのである。

白村江を戦った倭国の中心が朝鮮半島に面した筑紫にあったから、

天智は人々の反対を押し切って

近江遷都を実施せざるを得なかった、

と考える方がよほど合理的だと思う。