【「百済の役」の解釈】

斉明六年(660)から天智二年(663)にかけて、

倭国が百済救済の援軍を派遣したことを、

天武十三年十二月六日条には、「百済役」と記されている。

「役」とは、諸橋『新漢和辞典』によると、

原義は「辺境の地を警備すること。」とあり、

「国境を守備する兵士」、

「いくさ、軍役、戦役」、

「従軍する人民」などの意味があるという。

百済を外国と言うよりも辺境と意識していたとも解釈できる記述である。

森公章氏は『「白村江」以後 国家危機と東アジア外交』の中で、

以下のような記述を紹介している。

 

六六〇年の百済滅亡から六六三年の白村江の敗戦までの戦役を

「百済を救うの役(救百済之役:筆者加筆)」

(『日本書紀』持統四年〈六九〇〉一〇月乙丑条)、

「百済を救わんが為に軍旅に遣さるる時」

(『日本霊異記』上巻第七話)、

「百済を救わんが為に軍に遣到さる」(同第十七話)

 

なぜ倭国が百済を救わなければならなかったのか?

合理的な説明を聞いたことがない。

日本書紀が記す以上に倭国と百済は親密な関係にあったのではないか、

という疑問がわいてくる。

そのひとつの表れが、

天武十三年十二月条の「百済役」、

持統四年十月条の「救百済之役」に表されているのではないだろうか。

倭国にとって百済は自国の辺境にあるという認識があったとすれば、

多大の危険を冒してまで救援隊を派遣した行為が少し理解できるのである。