【白村江の戦いの位置づけ】

日本書紀には白村江の戦の後、

百済に駐在する唐軍から派遣された郭務悰が

二千人を連れて筑紫にやってきたことが記されている。

中村修也氏は『天智朝と東アジア』の中で、

郭務悰一行は駐留軍として大和まで来たと記している。

あるいは古田武彦氏のように、

筑紫に駐留したと解釈している研究者もいる。

日本書紀には百済を救済・復興させるために船団を派遣したとあり、

百済本記龍朔二年(663)七月条には、

「(唐・新羅連合軍が)倭軍と白江口で遭遇し、

四度戦ってみな勝、(倭軍の)舟四百艘を焚いたが、

その煙や炎は天をこがし、海水は丹くなった。」

と記されている。

唐・新羅連合軍の攻撃対象はあくまでも百済であって、

援助にきた倭軍とはたまたま白江で遭遇したのである。

したがって、白村江の戦いの翌年に筑紫まで来た郭務悰一行は、

駐留軍としてきたわけではなく、

唐・新羅軍が高句麗攻撃をする時に邪魔をさせないように

交渉にきたと考える方が適当ではないだろうか。