【百済の滅亡】

663年8月の白村江の戦いは、

唐・新羅軍によって滅ぼされた百済を復興するための戦いだった。

百済滅亡に関する記事は、

日本書紀・斉明天皇紀六年七月条

三国史記・新羅本紀・太宗武烈王七年(660)七月条などに記されている。

斉明天皇紀六年七月条では、

高麗沙門道顕の日本世記からの引用文で、

「春秋智、大将軍蘇定方の手を借りて、百済を挟み撃ちて亡ぼしつ。

或いは曰く、百済、自ずからに亡びぬ。

君の大夫人の妖女無道くして、擅に国柄を奪いて、

賢良を誅殺するに由りての故に斯の禍を召けり。

慎まざるべけんや、慎まざるべけんやという。」

三国史記・新羅本紀には、

太宗武烈王七年(660)七月十八日条に、

「(百済)義慈王は

太子の孝および熊津地区の方領(長官)の軍隊などを率いて、

熊津郡から降ってきた。」

と記されている。

これが百済滅亡の記事である。

百済に侵攻した唐の蘇定方(左武衛大将軍)は、

劉仁願を副将として泗沘城に残し、

「百済王および王族・重臣九十三人、百済人一万二千人を率いて、

泗沘から船に乗り、唐に帰った。」。

百済本紀にも、

「定方は、王および太子の孝、王子の泰・隆・演

および大臣・将軍八十八人、百姓一万二千八百七人を(唐の)都に送った。」

と記されている。

【考察】

日本書紀には、日本世記に記された別伝として、

百済王(義慈王)の夫人の出しゃばりが(百済滅亡の)原因であるとしているが、

新羅本紀では、義慈王自身が酒色におぼれたためと記している。

どちらをとるにしても、

百済朝廷内の乱れが滅亡の原因の一つとなったのだろう。

新羅本紀は、

新羅の武烈王が勝利を祝う酒席で、

捕虜となった百済王(義慈王)に酌をさせたとも記している。

酒色におぼれていた義慈王に相応しい辱めを与えたことになる。