【天智天皇崩御と郭務悰】

天武元年(672)、元年春三月十八日、

內小七位阿曇連稻敷を筑紫に遣わし、

天皇の喪を郭務悰等に告げた。

ここにおいて、郭務悰等はみな、喪服を着用して三度舉哀し、

東に向かって深く礼拝した。

二十一日、郭務悰等、再び礼拝し書函と信物を進呈した。

夏五月十二日、甲冑弓矢を郭務悰等に賜与した。

この日に郭務悰等に賜与した物は、

絁一千六百七十三匹・布二千八百五十二端・綿六百六十六斤

二十八日、高麗は前部富加抃等を派遣して進調した。

三十日、郭務悰等は帰国した。

持統六年(692)、閏五月十五日、

筑紫大宰率河內王等に詔して

「沙門を於大隅と阿多に派遣して、仏教を伝えなさい。

また、大唐大使郭務悰が

御近江大津宮天皇のために造った阿彌陀像を上送しなさい。」

と言った。

【考察】

天智十年(671)、十一月、

郭務悰率いる47艘、2000人の船団は、

対馬島に一時停泊して対馬国司を通して来訪の趣旨を筑紫に伝えた。

郭務悰は筑紫に対して

攻撃の意思がないことを明らかにする必要があった。

郭務悰が細心の注意を払い筑紫に上陸し滞在している時に、

12月3日天智天皇は近江京で崩御する。

翌年3月18日に、

近江朝廷は內小七位阿曇連稻敷を筑紫に派遣して

郭務悰に天智崩御を伝えた。

「內小七位」は使者としてはかなり低いの位階である。

郭務悰を唐皇帝からの使者ではなく、

百済に駐在する将軍からの使者として扱ったための対応であると考えられる。

日本書紀は、

天智崩御を聞いた郭務悰が3日後の3月21日に再度礼拝して、

「書函と信物を進呈」したと記すが、

これはあらかじめ持参したものであって天智崩御とは無関係であろうか。

郭務悰の帰国に当たって筑紫では甲冑弓矢を賜与している。

新羅と戦争状態となった唐軍に対して敵意はないことを示したことになる。

また同時に、

「絁一千六百七十三匹・布二千八百五十二端・綿六百六十六斤」

を賜与しているが、

すべて日用品になると考えられるので、

甲冑弓矢と共に渡していることを考えると、

唐軍に対する差し入れの意味合いがあるのではないだろうか。

 

持統紀六年(692)閏五月十五日条には、

天皇が筑紫大宰率河内王に対して、

九州の大隅地方と阿多地方に沙門(僧)を派遣して

仏教を普及させよと命じるとともに、

郭務悰が天智天皇のために造らせた阿彌陀像を上送するように命じている。

持統天皇が仏教に傾倒していることをあらわす記事である。

この時筑紫大宰に残っていた阿弥陀像は

郭務悰が百済に戻った後に手配して筑紫に送らせた仏像であろう。

あるいは崩御から阿曇連稻敷を派遣するまでの三か月の間に事前の連絡があり、

郭務悰等は準備を整えて正式な使者を待ったのかもしれない。