【対馬国司、唐の大船団来訪を報告】

天智十年(671)、十一月十日、

対馬国司は筑紫大宰府に遣使し、

「今月二日、沙門道久・筑紫君薩野馬・韓嶋勝娑婆・布師首磐の四人が、

唐から来て、

『唐国の使人郭務悰等六百人と送使である沙宅孫登等一千四百人、

合わせて二千人が船四十七隻に乗り比智嶋に停泊した。

彼らは、今我々の人数や船の数が多いので、いきなり筑紫に向かうと、

筑紫の防人たちを恐れさせ驚駭して射戦となってしまうといけない』

と言うので、道久等を遣わしてあらかじめ来朝の趣旨を伝えることにした。」

と言った。

【考察】

白村江戦の後の唐軍の動きの中で最も重要な記事の一つである。

唐の郭務悰が二千人を連れて筑紫に向かうが、

何の前触れもなしに船団を差し向けると、

倭国は沿岸防御のために攻撃をしてくるかもしれないので、

予め対馬国司が使者を筑紫大宰府に派遣して、

船団の来訪目的を報告したという記事である。

郭務悰一行が筑紫を攻撃するつもりはないことは明らかだが、

来訪目的は具体的に記されていない。

同船団には倭国人であると思われる

沙門道久・筑紫君薩野馬・韓嶋勝娑婆・布師首磐四人が

乗船していることは確かなので、

(白村江戦を含む百済の役で)百済に残された

倭人を送り届ける目的はあったらしい。

送使沙宅孫登の記述もあるので、

遣唐使として唐に渡っていた人々も含まれているのだろう。

日本書紀の前後の文脈を見ると、

この船団の中に国を失った多くの百済人が多く乗船していたことも

想定できる。

新羅との戦いに対応しなければならない唐は、

百済戦の時のように倭国を敵に回さないための懐柔策の一つとして、

郭務悰を派遣したのではないだろうか。

天智紀八年(669)是歲条にも、

郭務悰が二千余人を率いて来訪したと記載されているが、

もしそれが史実であれば、

対馬国司が使者を派遣して唐からの船団には倭国攻撃の意思がないことを

あえて確認する必要があるとは思えない。

重複記事と考えられるが、時期的にどちらが正しいのか判断することは難しい。