【天智八年是歳条の重要な三つの記事】

天智八年(669)、是歲、

小錦中河內直鯨等をさしむけて、大唐に使いさせた。

佐平餘自信・佐平鬼室集斯等男女七百余人を近江国蒲生郡に遷居させた。

大唐は郭務悰等二千余人を遣わした。

【考察】

天智八年(669)是歳条には三つのことが記されている。

全て非常に重要なことに思われる。

一つは遣唐使の派遣、

この遣唐使は『新唐書』日本伝に記された

「咸亨元年(670)遣使賀平高麗」と合致する。

唐に対して高句麗の平定を祝賀すると同時に

自分たちは日本から来たと名乗っている。

二つ目は百済からの貴族を含めた避難民700人を

近江に移住させたという記事である。

天智が筑紫から呼び寄せたのであろう。

三つ目は唐が郭務悰を筆頭に2,000人を派遣してきたという記事、

郭務悰は唐に駐在している官人であるが、

2,000人が軍人なのか百済遺民を含むのかは明らかになっていない。

天智十年十一月条の記事と重複である可能性が高い。

ここで郭務悰が二千人を連れて来訪していれば、

天智十年十一月条が成立しなくなるからである。

詳細は後述する。