【唐からの二度目の来訪】

天智四年(665)秋八月、

達率答本(火ヘン)春初を遣わして長門国に築城させた。

達率憶礼福留・達率四比福夫を遣わして、

筑紫国に大野城及び椽城を築かせた。

九月二十三日、

唐国は朝散大夫沂州司馬上柱国劉德高等を遣わした。

(等というのは、右戎衞郎将上柱国百済禰軍・朝散大夫柱国郭務悰をいう。

総数二百五十四人。七月二十八日対馬に到り、

九月二十日至于筑紫に到着、二十二日表函を進呈した。)

冬十月十一日、

菟道で大きな閲兵を行った。

十一月十三日、劉德高等を饗応した。

十二月十四日、劉德高等に物を賜与した。

是月、劉德高等は帰国した。

是歲、小錦守君大石等大唐に遣わす、云々。

(等というのは、小山坂合部連石積・大乙吉士岐彌・

吉士針間。送唐使人を送るためか。)

【唐は倭国への接近を試みた】

白村江戦の後、

完全に滅亡した百済から多数の避難民が倭国に渡海してきた。

高級官僚などの貴族クラスから文化人や技術者なども含まれており、

その後の日本国の成立に多大な貢献をしたことがうかがえる。

百済からの多数の避難民の渡海の初期のケースの一つが、

天智四年八月条に記されている。

前年に郭務悰が来た時には、

唐の皇帝の使者ではないことを理由に入京できなかったので、今

回は朝散大夫沂州司馬上柱國劉德高が唐からの正式な使者として、

皇帝からの表函を持参して来朝した。

使者たちに対して「菟道で大きな閲兵を行った。」とあるので、

入京が許されたのであろう。

劉德高一行は、もともと百済の官僚だった禰軍と

前年にもやってきた郭務悰を伴い、

全員で254名での来朝だった。

百済を滅ぼした後の唐にとって高句麗を攻撃することが最大の目的だった。

従って百済を滅亡させた時のように、

高句麗に対して倭国が援軍を差し出すことを

何としてでも防ぎたかったのではないか。

劉德高が引き連れてきた254名の中には、

倭国や百済の捕虜が含まれていたと考えられる。

さらに日本書紀白雉5年(654)の「伊吉博徳書」には、

鎌足の息子の定恵がこの時の船で唐より帰国した、と記されている。

遣唐使の送還や捕虜を引き渡すことによって

高句麗戦に援軍を派遣しない確約をとることを目的とした来訪だった、

と考えることが合理的であると思う。