【参考:善隣国宝記巻上より】

日本書紀岩波版(補注二十六-三)には、

郭務悰の来朝目的について

『善隣国宝記巻上』の記述を参考資料として提示している。

原文は漢文なので拙訳を試みた。

 

海外国記に次のように記されている、

天智天皇三年四月、大唐客が来朝した。

大使朝散大夫上柱国郭務悰等三十人と

百済佐平禰軍等百余人が対馬島に到着した。

(倭国は)大山中采女通信侶と僧智弁等を遣わした。

別館に客を喚び。ここで智弁が、

「表書と献物を持参してきましたか。」と質問すると、

使人は次のように答えた。

「将軍の牒書一函と献物があります。」

牒書一函を智弁等に手渡して奏上した。

但し献物の検看はすぐにはできなかった。

九月、大山中津守連吉祥・大乙中伊岐史博徳・僧智弁等は

筑紫太宰からの言辞として、(実際には勅旨だったのだが、)

客等に告げた。

「今大唐からの客としてきた皆様の来状を見ると、

天子の使人ではなく、百済鎮将の私使であるようです。

またもたらされた文牒によると、執事が個人的に送上したものです。

したがってあなたがたは入国することはできず、

持参した書もまた朝廷へ上げることはできません。

したがって皆様は公の使いではないので、

おおよその言辞を口頭で奏上するだけになります。」

十二月、博徳は客等に牒書一函を授けた。

函の上面には鎮西将軍と著されていた。

「日本鎮西筑紫大将軍が在百済国大唐行軍揔管に牒す。

使人朝散大夫郭務悰等が来た。

もたらされた牒を見て、来朝の目的を訪ねると、

天子の使いではなく、又天子の書を持参していなかったので、

今回は(百済)揔管の使いで、持参したのは執事の牒だった。

牒は私意であり、口奏にすぎず、

客人は公使ではなく、京に入ることはできない。」云々。

【近藤浩一氏の解釈】

以上の内容について近藤浩一氏が要領よくまとめているので

謹んで引用させていただく。

「ここでは倭王権が下した結論のみを述べれば、

百済鎮将の派遣した使節は

私使であって唐皇帝の公の使人でないという理由で

帰還させるというものである。

この時筑紫大宰府が郭務悰らに百済鎮将宛の牒書を託していることから、

倭王権は熊津都督府を大宰府と同等の機関とみなしていた

という指摘もある(鈴木靖民 2011 b)。

こうした倭王権の対応はいわば戦勝国と敗戦国の関係に反していたが、

熊津都督府側はそれを責めることはせず、

形だけであれ倭国の要望を聞き入れ、

翌年に唐国本国の朝散大夫沂州司馬上柱国劉徳高を首席として、

前年度の郭務悰らを伴いながら派遣している。」

(近藤 浩一「白村江直後における熊津都督府の対倭外交 

朝鮮半島西南地域と北部九州にみる交流史の視点から」より引用)

【考察】

日本書紀にも郭務悰は百済鎮将劉仁願の使いとして

来訪した旨が記されているので、

『善隣国宝記』巻上の記述と矛盾しない。

郭務悰は唐本国からの使者ではなく

百済を占領した百済駐留軍のトップである劉仁願が派遣した使者である。

郭務悰は唐の皇帝(天子)からの国書を持参していなかったので

公式な使者と認められず京に入ることができなかった。

近藤浩一氏はこの倭王権の対応について、

「戦勝国と敗戦国の関係に反していた」としている。

白村江の戦いの勝者と敗者だから近藤氏はそう述べたのである。

ところが唐と新羅軍は百済を相手に戦っていたのであって、

白村江に参戦した倭国軍は百済の援軍に過ぎない。

倭国は白村江の局地戦に参戦して惨敗したのであって、

唐との戦争に負けたわけではない。

白村江で敗れた結果滅亡したのは百済である。

倭国は援軍として参戦した局地戦に敗れて退散したが、

そのことによって

唐と倭国が「戦勝国と敗戦国の関係」になったわけではない、と思う。

唐の出先である百済鎮将劉仁願の使いにすぎない郭務悰を

正式な使者とみなさない倭国の態度は

決して「反している」わけではない。