【白村江で受けた倭国のダメージ】

倭国は百済を救援する戦役で、

壊滅的な打撃を受けたとする見解を多く耳にする。

確かにかなりのダメージを受けたとは思うが、

政権の基盤を危うくするほどではなかったのではないかと考えている。

何故ならあくまでも海外に出て行って戦った結果であって、

第二次世界大戦のように国内への侵略を許したり

空襲を受けたりした戦争とは異なっているからだ。

例としては適切でないことはわかっているが、

ギャンブルをする時に持ち金の範囲内でやるのと

借金をして掛け金を調達するケースとの違いに似ている。

海外で行った戦争はあくまでも身の程をわきまえた戦力しか派遣できない。

船を造ったり武器を供出したり兵を出したりしなければならないので、

国の財政や人々の生活はかなり疲弊しただろうが、

あくまでも回復可能な範囲でのダメージにとどまっていたと考えられる。

【史料に残された倭国の派遣規模】

日本書紀に記された百済の役への派遣規模を算出してみようと思う。

天智即位前紀(斉明七年)九月条、

百済王子豊璋に織冠を授け、妻をめとらせて、

五千余名の兵を護衛につけて本国へ送り届けた。(船百七十艘)

天智元年三月条、

高麗からの要請にこたえて救援軍を派遣。(兵数不明)

天智二年三月条、

前軍・中軍・後軍の三軍編成で二万七千人を百済へ派遣。

白村江戦での倭国船団の規模は、

三国史記・文武王には「倭船千艘」、

旧唐書劉仁軌伝には「四百艘」と記されているので、

数百艘から千艘ほどであったと思われる。

千艘の船と数万人の人命は派遣された総数であって、

この中には無事に帰還したものも含まれている。

たとえすべてを失ったとしても、

倭国が壊滅的なダメージを受けることはなかったのではないだろうか。