【中大兄の常套手段】

中大兄の殺戮には決まったパターンがある。

中大兄が排除しようとする人を含めて数人が謀反の準備をする。

→そのうちのひとりが中大兄に密告する。

→中大兄は謀反を企てたとして一網打尽にするが

密告者及び数人は罪を免れる。

【古人大兄謀反発覚事件】

このパターンの最初の例が、

孝徳大化元年九月三日条の古人大兄謀反事件である。

(孝徳大化元年九月三日)

古人皇子、蘇我田口臣川掘・物部朴井連椎子・吉備笠臣垂

・倭漢文直麻呂・朴市秦造田來津と謀反。

或本云、古人太子。

或本云、古人大兄。この皇子、入吉野山に入ったので吉野太子ともいう。

垂、これをシダルという。)

十二日、吉備笠臣垂は自首して中大兄に

「吉野古人皇子は蘇我田口臣川掘等と謀反を企てている。

私もその中に加わっていた。」と告発した。

或本云、吉備笠臣垂は言阿倍大臣と蘇我大臣に

「私は吉野皇子を中心に謀反を企てる仲間に加わっていたが自首します。」

と告発した。)

中大兄は、すぐに菟田朴室古・高麗宮知に若干の兵を率いさせて

古人大市皇子等を討伐させた。

或本云。十一月三十日、中大兄は阿倍渠曾倍臣・佐伯部子麻呂二人に

兵三十人を率いて、古人大兄を攻撃させ、

古人大兄とその子を斬殺し、妃と妾は自害した。

或本云、十一月、吉野大兄王は謀反を企てたが、ことが発覚し、誅殺された。)

【百年後も称賛される密告者】

仲間を裏切り中大兄に密告した吉備笠臣垂は、

『続日本紀』天平宝字元年十二月条に、

「大錦下笠志太留、吉野大兄が密を告げし功田二十町。

告げたる微言は尋ぬるに露験に非ず。

大事を云ふと雖も、理軽重すべし。

令に依るに中功なり。二世に伝ふべし。」

と記されている。

吉備笠臣垂が誰からも強制されずに自ら進んで密告したことが

百年後に評価されている。

状況からみて、

吉備笠臣垂が潜入捜査をしたか、

あるいは古人大兄らに謀反計画をたきつけ

合意を得たところで密告するという段取りだったのではないか

と推測される。

そのことが百年後も称賛されるということは、

価値観が奈良時代になっても継続されているということだろう。