【小野妹子を「大唐」へ派遣】

『日本書紀』推古十五年秋七月条には、

「大禮小野臣妹子遣於大唐」と記されている。

遣隋使を派遣した時の記事である。

日本古典文学大系『日本書紀』では、

この文中の「大唐」に「事実は隋」と注を加えている。

日本の子供たちは皆義務教育で「最初の遣隋使は小野妹子」と習う。

しかし日本書紀には隋ではなく「大唐」と記されているので、

歴史教育は言い訳から始めなければならないのが現状である。

【『日本書紀』と旧・新唐書の食い違い】

小野妹子派遣の約20年後の舒明二年、

今度は正真正銘の遣唐使が派遣される。

東アジアに君臨する大国唐との外交が開始されたのである。

舒明二年の遣唐使については『旧唐書』倭国伝にも記されている。

倭国から大規模な使節団が派遣され、

唐側も正式な使者として受け入れている様子が

日中どちらの正史にも描かれている。

信用することができる歴史時代の始まりが期待されるが、

なかなかそう順調にはいかない。

『日本書紀』には合計6回の遣唐使派遣が記されており、

旧・新唐書にも遣唐使を受け入れたことが記載されているが、

『日本書紀』と旧・新唐書の記述が一致していない。

時期も内容もちぐはぐなのである。

些細な出来事ならともかく、

遣唐使は大船団を仕立てて数百人が移動するできごとである。

記述の食い違いにはそれなりの理由があるのであろう。

【合理的な考察に必要なこと】

・旧・新唐書の記載には客観性を認める。

よほどの事情がない限り、

遣唐使を造作したり

時期を意図的に変えたりすることはない、

と考える。

・『日本書紀』は、隋を大唐に変えているように、

唐に対して忖度している可能性がある。

・『日本書紀』の六回の遣唐使の記述の中に完全な作り話はないが、

編纂者の手元に残された原史料の状況などによって、

登場人物や実施時期などが変更された可能性があることに留意する。

・『日本書紀』の記述が旧・新唐書と矛盾する場合は、

旧・新唐書の客観性を基準として『日本書紀』の記述を考え直してみる。

・『日本書紀』と旧・新唐書に記された遣唐使には、

「国名が倭国からの遣唐使」と

「国名が日本国からの遣唐使」が

存在することを前提とする。

前回までの拙ブログでは、

以上のようなことに留意して、

7世紀の遣唐使の実態に少しでも近づくことを目的とした考察を試みた。