【倭国と日本国が書き分けられた旧唐書】
旧唐書では、
倭国と日本国が書き分けられている。
旧唐書に記された7世紀の遣唐使は
倭国から派遣されたのか、
日本国から派遣されたのか。
明確になっている。
貞観五年(631)の遣唐使と
貞観二十二年(648)の新羅経由の上表文は
倭国から発せられた。
このふたつは倭国伝に記されている。
日本国伝には、
このことを語った日本国からの遣唐使がやってきた時期は不記載である。
【新唐書記載の遣唐使】
新唐書では、
旧唐書に記されていない遣唐使が記されている。
永徽(650~655)の初めに虎魄の大きさ斗の如く、
瑪瑙の五升の器の若きを献じてきた遣唐使、
その翌年に蝦夷を連れてきた遣唐使、
咸亨元年(670)、高麗を平定したことを祝す遣唐使である。
咸亨元年の遣唐使の記述に続いて、
倭国から日本国へ国号が変わったいきさつ、
小国日本が倭国を併合したことと、
日本国の領域が記されている。
史料の状況としては以上である。
【倭国の遣唐使か、日本国の遣唐使か】
日本書紀に記された6回の遣唐使の内、
舒明2年(630)8月に出発した第一回が
倭国からの遣唐使であることは
旧唐書倭国伝に記されていることから明らかである。
第一回は恵日が副使となっているので、
同様に恵日が副使となっている第三回も倭国発ということになる。
第六回は旧唐書日本国伝に出てくるので日本国発だろう。
第二回は新唐書日本伝の永徽(650~655)初の遣唐使と
時期は同じであるが、
内容的には第四回と船団規模や遭難の経緯がよく似ており、
もとは同じ史料だったのではないか。
第四回は本文はわずかでほとんどが伊吉連博德書からの引用である。
蝦夷を同行して唐の皇帝に謁見させているので、
内容的には永徽年間の二回目の遣唐使と類似している。
実際には永徽二年(651)の遣唐使だったのではないだろうか。
つまり、斉明5年(659)7月発と記された第四回遣唐使は
白雉4年(653)5月発遣唐使の重複ではないか。
第六回遣唐使は、
旧・新唐書の記載から日本国からの使者と考えられる。
残されたのは封禅の儀出席のためとされる第五回である。
第四回の小錦下坂合部連石布と
第五回の小山坂合部連石積の名前の類似性から同一国、
第四回は第二回と重複していると考えると、
第一回から第五回までは倭国、
第六回だけが日本国と考えてよいのではないだろうか。
(第四回は重複記載なので実際にはなかった)