【旧唐書・新唐書の倭国と日本国】

旧唐書倭国日本国伝、新唐書日本伝には,

遣唐使の記事がかなり多く記されている。

中国の正史では前代までに記された記事を踏襲し、

唐書なら唐の時代の出来事を追加して記述していく。

唐書の7世紀の記事は旧唐書も新唐書も、

倭国からの、あるいは日本国からの遣唐使の記事ばかりである。

【旧唐書倭国日本国伝の構成】

旧唐書倭国伝は倭国の歴史・地理・政治・風俗などを描いた後、

貞観五年」という太宗の年号を記し、

その年にやってきた倭国からの遣使について記している。

唐は貞観五年の遣唐使の帰国に際して、

新州の長官である高表仁を送使として同行させる。

旧唐書によると高表仁は倭国で王子と争いを起こして

太宗の親書を倭国に渡すことができなかったという。

その後倭国は遣唐使の派遣ができなかったのか、

「貞観二十二年」に新羅を通じて太宗に上表文を届けている。

以上が旧唐書倭国伝の記事である。

日本国伝は「日本国者倭国之別種也」で始まっている。

日本国の使者は、

「日辺にあるので日本を名とした」、

「倭国は倭が雅でないことを嫌い日本と名を改めた」、

「日本はもともと小国で、倭国の地を併せた」

などとこれまで来た倭国の使者と違うことを言うので、

唐側から見ると信用できなかったようだ。

また日本国の大きさについては、

東西南北がそれぞれ数千里(400km)、

西と南は大きな海に行き着き、

東と北は大きな山までが国土であり、

山の外は「毛人の国」があると述べていたという。

この日本からの使者についての記事には年号の表記はない。

この時点では正式な使者と認めていなかったためであろう。

日本国伝はこの後、

「長安三年(703)」、

「開元初(713)」、

「天宝十二年(753)」」、

「貞元二十年(804)」、

「元和元年(806)」、

「開成四年(839)」

と遣唐使の記事が続く。

唐側の関心事としては、

遠路はるばるやってくる遣唐使のことに尽きるようである。

大海を渡り身の危険を顧みず繰り返しやってくる

日本国からの使者を記録に残すことによって

唐皇帝の影響が遠方まで及んでいることを示している。

【新唐書日本伝の構成】

新唐書日本伝は旧唐書倭国伝と同じように、

冒頭で日本(倭国という言葉は出てこない)の

歴史・地理・政治・風俗にふれている。

その後天御中主に始まる王統を紹介するが、

天皇名に8世紀末ごろに定められた漢風諡号が使用されているので、

平安時代の遣唐使による新知識が反映されていると考えられる。

唐代の記述になると遣唐使記事中心になることは旧唐書同様である。

貞観五年遣唐使記事に高表仁が登場して王子と争いを起こしたり、

その後新羅使に託して上表してきていることも同様である。

その後はしばらく新唐書日本伝ならではの記事が続く。

永徽(650~655)の初め其の王孝徳即位し改元して白雉と曰い、

虎魄の大きさ斗の如く、瑪瑙の五升の器の若きを献ず。

明くる年、使者蝦夷人と共に朝す。

蝦夷もまた海島の中に居し、

その使者は鬚の長さ四尺許り、箭を首に珥し、

人をして瓢を戴きて立つこと数十歩なら令め、射て中たらざることなし。

咸亨元年(670)、遣使賀平高麗。」

永徽初、その翌年、咸亨元年(670)の遣唐使については

旧唐書に記載はない。

しかし蝦夷を連れた遣唐使については

日本書紀斉明五年(659)七月の遣唐使記事の

伊吉連博德書の引用部分に同様の記述がある。

また日本書紀においては、

白雉四年(653)五月と白雉五年(654)二月に、

二年続けて遣唐使派遣記事が出てきているが、

新唐書日本伝の永徽初とその明くる年の

二年連続の遣唐使記事と年紀こそ違っているが

共通している点もあるので見逃すことはできない。

白雉四年と斉明五年の遣唐使記事の類似性については

重複記事ではないかとの疑念を述べたが、

新唐書の年紀に合わせて日本書紀を整理しなおすと

より史実に近づくのではないだろうか。

咸亨元年(670)の遣唐使記事では、

日本からの使いが国名変更の事情や政権交代のいきさつを述べているが、

旧唐書では同様の記事の年代が不明だったので、

これも新唐書の記載に合わせるのが正しいのかもしれない。