【6回の遣唐使派遣:唐書との整合性など】

日本書紀には6回の遣唐使派遣記事が記載されている。

舒明二年(630)の遣唐使(第一回)は、

唐の高表仁と共に帰国したことが

旧唐書にも新唐書(高仁表と誤記?)にも記されているので、

内容の正否はともかく、

遣唐使派遣は行われたと考えてよいだろう。

白雉四年(653)の遣唐使(第二回)は、

旧唐書には記載がなく、

新唐書に、

「虎魄の大きさ斗の如く、瑪瑙の五升の器の若きを献ず。」

と記されているが、使者についての言及がない。

白雉五年(第三回)の遣唐使についても、

新唐書に前年に続いて来朝し、

今度は蝦夷を連れてきたと記されている。

旧唐書に記載がないことは前回と同様。

斉明五年(第四回)の遣唐使については、

旧唐書にも新唐書にも記載がないが、

斉明紀には伊吉連博德書からの引用で詳細が記されており、

蝦夷を連れて行っている内容は

新唐書日本伝の記事と通じるところがある。

時期が合わないことをどう解釈するか。

また第四回と第二回の内容に似たところがあるので、

日本書紀記事が重複していると考えると、

何とか整合性が取れてくる可能性がないでもない。

天智四年(665)是歳条の遣唐使(第五回)は、

旧唐書・高宗本紀に記されている

麟徳三年正月に行われた封禅の儀に出席のためと考えて大過ないだろう。

天智八年(669)の遣唐使(第六回)は、

新唐書日本伝の「咸亨元年(670)、遣使賀平高麗。」のことであろう。

この遣唐使は、

倭が日本と国号を変更した理由や

大国の倭が小国の日本を併合したいきさつを述べ、

唐側からは疑念を持たれたという。