【日本書紀に記された六回の遣唐使記事】

これまで見てきたように、

日本書紀によると、

7世紀の遣唐使は計6回派遣されている。

第一回遣唐使:舒明二年(630)八月~舒明四年(632)八月

     旧唐書倭国伝、新唐書日本伝にも記載あり。高表仁登場

第二回遣唐使:白雉四年(653)五月~白雉五年(654)七月

     第四回遣唐使と派遣隊の規模や遭難状況が酷似している。

第三回遣唐使:白雉五年(654)二月~斉明元年(655)八月

     二回と三回は派遣時期が重なっている

      旧唐書倭国伝貞観二十二年(648)条

          「二十二年又附新羅奉表以通起居」

      新唐書日本伝永徽初(650)条

          「永徽初其王孝徳即位改元曰白雉献虎魄大如斗碼瑙若五升器 

第四回遣唐使:斉明五年(659)七月~斉明七年(661)五月

      『伊吉博徳書』・『難波吉士男(津守吉祥)人書』によって

      詳細が記されている。

第五回遣唐使:天智四年(665)是歳~天智六年(667)十一月

      麟徳三年(666)正月の封禅の儀に参加するためか。

第六回遣唐使:天智八年(669)是歲~天智十年(671)三月条(?)

      新唐書日本伝の「咸亨元年(670)、遣使賀平高麗。」に対応

 

【7世紀遣唐使の総括】

日本書紀には7世紀に倭国あるいは日本国から唐へ

合わせて6回の遣使が行われたことが記されている。

その内第二回と第四回は内容が似ていて、

さらに第二回と第三回の派遣時期が近接しており、

さらに中国の史書に記載されていないことから、

第二回の遣唐使は史実として疑わしい。

したがって七世紀には5回の遣唐使が確実に行われたと考えられる。

第五回と第六回は白村江の戦の後の実施となっており、

強国の唐との関係を親密化する意図が感じられる。

そのこととは対照的に、

第六回の遣唐使の後約30年間遣唐使が途絶えることとなる。

壬申の乱が勃発し天武天皇の政権となった後、

新羅との交渉を始める様子が日本書紀には描かれている。

高句麗を滅ぼした後に唐と新羅の間が険悪になり、

唐・新羅戦争(670年から676年)が勃発したこととの関連を

考えなければならないだろう。

日本書紀の文脈に即していうと、

唐との親密化をはかる天智天皇の近江朝廷を

壬申の乱によって滅ぼした天武天皇が

唐・新羅戦争と時期を合わせるかのようにして

新羅に急接近しているのである。