【第六回遣唐使:天智8年(669)~?】
天智八年(669)是歲、遣小錦中河內直鯨等、使於大唐。
小錦中河內直鯨の冠位「小錦中」は遣唐大使にふさわしい。
律令の五位に相当する。
帰国記事は記されていないが、
十年三月条の
「黃書造本實が水臬(みずばかり)を献上した。」の記事が
遣唐使帰国をあらわしているとする見解がある。
【新唐書日本伝咸亨元年(670)の遣唐使】
に対応していると思われる。
咸亨元年条は上記に続いて
遣唐使が倭国と日本国について語ったことを記している。
「倭国の人が後に中国語を学んで、
倭の名前(の意味は背が曲がって身長が低い人をあらわしている)を嫌い、
日本と改称した。
使者が自ら、国は太陽が出るところに近いので、日本という名前にした、
と言った。
別の人は、日本は小国で倭国に併合されたが、倭国は日本の名前を名乗った、
と述べた。
使者は情(事実)を語っていないので(唐は)その言葉を疑った。
又みだりに誇張して、
その国都の大きさは数千里四方で、
南と西は盡海にいきつき、東と北は限大山を境にしていて、
その外は毛人(の国)と云う、
と語った。
倭国と日本国が別の国だという旧唐書倭国日本国伝と
対応する個所につながっている。
日本国が倭国を併合したのかあるいはその逆か、
倭国が日本国を名乗ったのかもともと日本国だったのか、
両書を読解してみてもなかなか難解であるが、
倭国から日本国への移行が
どのように行われたかを考えるときには
避けては通れない史料である。