【第五回遣唐使:天智4年(665)~天智6年(667)】

(天智紀四年)九月二十三日条、

唐国は朝散大夫沂州司馬上柱國劉德高等を遣わす。

(等と謂うのは、右戎衞郎將上柱國百濟禰軍・朝散大夫柱國郭務悰、

凡二百五十四人のこと。

七月廿八日に対馬に至り、九月廿日に筑紫に至、

廿二日に表函を進呈した。)

冬十月十二日、菟道で大閲を行った。

十一月十三日、劉德高等を饗賜した。

十二月十四日、劉德高等に賜物した。

是月、劉德高等は帰国した。

是歲、小錦守君大石等を大唐に遣わした、云々。

(等というのは、小山坂合部連石積・大乙吉士岐彌・吉士針間を謂う。

唐使人を送るためと思われる。)

(天智紀六年)十一月九日条、

百済鎭将劉仁願、熊津都督府熊山県令上柱国司馬法聰等を遣して、

大山下境部連石積等を於筑紫都督府まで送る。

十三日、司馬法聰等は帰国した。

小山下伊吉連博德・大乙下笠臣諸石を送使とした。

【天智四年の遣唐使と封禅の儀】

「旧唐書高宗本紀などの海外史料によると、

唐の高宗は麟徳元年(664)七月に、

三年(666)正月を期して泰山に封禅の儀を挙げる旨を天下に告げ、

諸王は同二年十月に洛陽へ、

諸州刺史は同十二月に泰山に集まることを命じた。

同二年、『冊府元亀』外臣部によれば、

その八月以降、百済にあった劉仁軌も

羅・百済・耽羅・倭人ら四国の使を領して西還し、泰山に赴いた。

また同書、帝王部は、

十月に洛陽を発った高宗に従駕した諸臣酋長の中に、

東西アジア諸国と並べて倭国を挙げている。」(岩波版補注二十七―7より)

岩波版の補注は、

封禅の儀に参加した倭人について以下のような説を紹介している。

・池内宏:白村江の戦で降伏した倭人であろう。(満鮮史研究上世第二冊)

・補注の筆者:天智四年遣唐使小錦守君大石は

天智四年に出発したと記されている。

書紀には、「唐使人を送るため」と編纂者の私案が付記されているが、

本文には大石らの出発年月日は記されていない。

大石の冠位「小錦(五位相当)」は送使としては高いので、

封禅の儀参加のためではないかと推測している。

・古田武彦:百済の役で唐軍に捕らえられた

筑紫君薩野馬(天智十年十一月に帰国)」ではないかと仮説を立てている。

(『古田武彦の百問百答』p172~)

斉明七年(661)筑紫君薩野馬百済の役にて唐軍に捕らえられる

天智三年(称制か即位か不明:664or610)大伴部博麻の献身で釈放

麟徳三年(666)封禅の儀

天智十年(671)筑紫君薩野馬帰国

古田氏は日本書紀の記述は三年さかのぼる

(天智七年八月に流罪になっている劉仁願が天智十年正月条に出てくるので

天智紀の記事は三年さかのぼることがあるとする)

したがって麟徳三年(666)正月の封禅の儀に出席した筑紫君薩野馬は

天智七年(668)に帰国したとするとつじつまが合うことになる。

【封禅の儀とは】

封禅の儀とはWikipediaによると、

「封禅(ほうぜん)は、帝王が天と地に王の即位を知らせ、

天下が泰平であることを感謝する儀式である。」

司馬遷の『史記』(巻二十八封禪書第六)の注釈書である『史記三家注』によれば、

「『史記正義』には、)泰山の頂に土を築いて壇を作り天を祭り、

天の功に報いるのが封で、

その泰山の下にある小山の地を平らにして、

地の功に報いるのが禅だ、とある。」

『史記三家注』では続いて『五経通義』から、

「王朝が変わって太平の世が至ったならば、必ず泰山を封ぜよ」

という言葉を引用している。

【倭国からの出席者は誰か】

麟徳三年(666)正月の封禅の儀に倭国からの参加があったことを

『冊府元亀』は記している。

日本書紀には言及がないので誰が出席したのかはわからない。

参加を求められているのは「諸王」と「諸州刺史」。

「諸王」とは唐の封建体制に組み込まれている諸国のトップが基本であるが

「新羅・百済・耽羅・倭人ら四国の使」とある(『冊府元亀』外臣部)ので、

高官の代理出席も認められたのだろう。

「(麟徳二年八月以降に)百済にあった劉仁軌も

新羅・百済・耽羅・倭人ら四国の使を領して西還」して

封禅の儀に出席しているので、

同年に遣唐使となった「小錦守君大石」の可能性が高そうだ。

古田武彦氏の「筑紫君薩野馬」説は

ご本人が思いついた仮説と述べているように

あまりにも根拠が希薄と言わざるを得ない。