【白雉五年二月条】

白雉五年)二月

大唐に遣わす押使大錦上高向史玄理

(或本には、夏五月大唐に遣わす押使大花下高向玄理という)

・大使小錦下河邊臣麻呂・副使大山下藥師惠日・判官大乙上書直麻呂

・宮首阿彌陀(或本には、判官小山下書直麻呂という)

・小乙上岡君宜・置始連大伯・小乙下中臣間人連老(老、これをオユという)

・田邊史鳥等が二船に分乘した。

数か月を経て、新羅道をとり于萊州に泊り、

遂に京(長安)に到って天子に奉覲した。

ここで東宮監門郭丈舉は、日本国の地里と国初の神名を質問してきたが、

皆問われるままに答えた。

押使高向玄理は大唐で亡くなった。

伊吉博得言うには、

「學問僧惠妙は唐で死に、知聰は海で死に、智国は海で死に、

智宗は庚寅年に新羅船に乗って帰国、

覚勝は唐で死に、義通は海で死に、

定惠は乙丑年に劉德高等の船で帰国。

妙位・法勝・学生氷連老人・高黃金の合計十二人と

別倭種の韓智興・趙元寶は今年使人と共に帰国した。」

(斉明元年)八月一日、河邊臣麻呂等、大唐より還る。

 

【考察】

以上が第三回遣唐使について日本書紀に記された箇所である。

いくつか気になる点があるので検討してみたい。

・第二回遣唐使の出発(白雉四年五月)からわずか9か月後に出発している。

・二船に分乗しているので派遣人数は第二回と同規模であろう。

・二船団とも新羅経由で長安まで生き皇帝(高宗)に謁見している。

・リーダーである押使大錦上高向史玄理の位階は

 第一回遣唐使と同様に高く遣唐使団のリーダーとしてふさわしい。

【第二回遣唐使の派遣の9か月後の出発】

第二回と第三回の遣唐使の出発の時期が近接している理由としては

二つの可能性が考えられる。

一つは第二回遣唐使の南回りの船団が難破したため

急遽遣唐使団を仕立てて再派遣した。

したがって危険な南回りを避けて

すべて西回りの朝鮮半島経由のコースをとっている。

二つ目は、

第二回と第三回とでは遣唐使の派遣主体が異なっている可能性である。

【遣唐使団リーダーの位階】

第一回遣唐使のリーダーは大仁犬上君三田耜・大仁薬師惠日で、

ともに位階は「大仁」、冠位十二階の上から三番目である。

第二回遣唐使は小山上吉士長丹と小山上高田首根麻呂が大使となっており、

二人に付けられた「小山上」、「小山上」は、

大化五年二月に制定された冠十九階の十六番目と十五番目である。

第三回遣唐使で派遣されるリーダーの高向史玄理は

「大錦上」あるいは一説には「大花下」とあるが、

白雉五年当時の位階では「大花下」が相当し、

冠十九階の第八位で第一回遣唐使の大使の位階「大仁」と同等である。

なぜ第二回だけ下位の位階のものがリーダーとなったのか。

第二回と第三回は派遣主体が異なっている】

第二回の翌年に第三回遣唐使が派遣されていることには

疑問を感じざるを得ない。

また第一回と第三回の遣唐使のリーダーの位階に比べて

第二回が極端に低いことも不審である。

この二つの疑問点は第一回・第三回と

第二回の派遣主体が異なっているとすれば理解できる。

第二回が近畿の勢力(後に日本国となる)、

第一回と第三回が九州の倭国からの派遣だとすると合点がいきそうだ。

近畿勢力が倭国の傘下にあったとすると

第二回の派遣主体である日本国の役人の位階が低いことは

当然であると考えられるからである。

【旧唐書倭国伝】

貞観二十二年(648)に至り、また新羅に附し表を奉じて、以て起居を通ず。

旧唐書倭国伝のこの記事は

該当する遣唐使が日本書紀には記載されていないが、

新羅経由で行われていること、

倭国伝に記載されていることからすると

第三回遣唐使の可能性が高いといえそうだ。

【新唐書日本伝】

永徽初(650年)、その⑦王の孝德が即位(645年)、改元して白雉という。

一斗升のような大きさの琥珀、五升升のような瑪瑙を献上した。

新唐書日本伝の以上の記述は

第二回か第三回かは不明である。

新唐序には倭国と日本国の区別はない。