【第二回遣唐使:白雉四年(653)五月~白雉五年(654)七月】

第二回遣唐使について日本書紀は三か所に分けて記している。

白雉四年五月条の出発、

同年七月条の沈没&一部生還、

同五年七月条と是月条に帰国。

この間に同五年二月に第三回遣唐使が出発している。

(白雉)四年(653)五月十二日、

大唐に発遣した。大使は小山上吉士長丹

副使は小乙上吉士駒(駒のまたの名は絲)。

その他学問僧道厳・道通・道光・惠施・覚勝・弁正・恵照・僧忍・知聰・道昭

・定惠(定惠は內大臣の長子)・安達(安達は中臣渠毎連の子)

・道観(道観は春日粟田臣百済の子)・学生巨勢臣薬(薬は豊足臣の子)

・氷連老人(老人は眞玉の子)。

(或本には、学問僧知弁・義德、学生坂合部連磐積を加えている)

合計121人が一船に同乗し、室原首御田を送使とした。

もう一つの船には、

大使に大山下高田首根麻呂(またの名八掬脛)、

副使に小乙上掃守連小麻呂、

学問僧道福・義向など合計120人が同乗し、

土師連八手を送使とした。

白雉四年七月、

大唐に派遣された使人の高田根麻呂等は、

薩麻之曲と竹嶋の間で船が沈没し亡くなった。

同乗者の中で五人だけは、胸に一枚の板をつなげて竹嶋に流れ着いた。

その場所がどこかわからなかったが、

五人の中のひとりである門部金は、竹を採って筏を作り神嶋に到着した。

この五人は、六日六夜を通して全く食事をせずに過ごした。

生還した金は褒美されて昇進昇給した。

(白雉五年)秋七月二十四日、

(前年五月に出発した)西海使(朝鮮半島経由の遣唐使?)吉士長丹等は、

百済・新羅の送使と共に、筑紫に到着した。

是月、西海使等が唐国の天子から

多くの文書と宝物をもらってきたことをほめたたえて、

小山上大使吉士長丹に少花下を授け(三階級昇進)、

二百戸を賜封し、吳氏を賜姓し、

小乙上副使吉士駒には小山上を授けた(四階級昇進)。

【第一船団と第二船団の航路と成果】

第二回の遣唐使は、

一船に約120人乗る船団を二船団結成して出発した。

第一船団は朝鮮半島を経由する西回りコース、

第二船団は東シナ海経由で向かったが、

第二船団は鹿児島沖で難破し

120名の乗員の内5人だけが

近くの島に漂着して生還することができたという。

第一船団は往復とも朝鮮半島経由のコースをとり、

無事に唐の天子から文書と宝物を受け取り帰国することができた。

【唐側の対応】

第二回遣唐使は、白雉四年(653)の遣唐使である。

旧唐書にも新唐書にも記されていない。

120人の船団を2グループ仕立てて出発し、

第二船団は難破して沈没したが、

第一船団は無事唐に到着し皇帝から品物を受け取って帰国している。

気になる点は、帰国するときに新羅と百済の送使に付き添われてきたことだ。

往路もどちらかの国あるいは両方の国に案内されて入唐したのではないか。

第一回遣唐使は倭国単独で入唐しているのだから、

もし他国に先導されたのだとすれば

何らかの事情があったと考えざるを得ないだろう。

唐側からも正式な遣使として受け止められていない可能性も

考慮しなければならない。