【称制と重複記事】

斉明天皇崩御後、天智天皇はすぐに称制を開始した。

称制とは執政能力のない天皇の時にバックアップする体制のことなので、

天智称制の意味は本来の称制とは異なっている。

日本書紀がその存在を記すことができない天皇が存在したか、

天智が即位できない事情があり「称制」の意味を

「即位していないものが執政すること」と拡大解釈をしたか、

二者択一である。

天智天皇紀にはいくつかの重複記事があることはよく知られている。

重複記事には、称制紀年と即位紀年の二通りの原史料

(即位年に二通りの説があるので厳密には三通り)が

存在したことが影響しているといわれる。

称制開始年と即位開始年の違いによる「6年の違い」、「5年の違い」以外にも

「2年の違い」、「3年の違い」、「7年の違い」の

重複記事と言われるものが存在するので、

それぞれに原因を考える必要がある。

【7年を隔てた重複記事】

天智三年二月九日条

天皇は大皇弟に命じて、冠位階名を 増やすことと

氏上・民部・家部等のことを宣言させた。新位階は廿六階。

天智十年正月六日条

東宮太皇弟が奉宣して(或本では大友皇子が宣命)冠位法度之事を施行。

天智三年条は「甲子の宣」といわれる内政改革として知られるが、

白村江の敗戦の直後に新しく冠位を定めることは現実的ではなく

原史料は即位年で記されており、

天智十年以降の出来事と考えるべきだろう。

十年条の記事には新冠位の詳細は「新律令」に記すとあり、

近江令が存在したことの根拠とされている。

【6年を隔てた重複記事】

天智四年二月是月条

鬼室集斯に小錦下を授け、百済の百姓男女四百余人を近江国神前郡に住まわせた。

天智十年正月是月条

大錦下を佐平余自信・沙宅紹明法官大輔に授け、小錦下を鬼室集斯学職頭に授けた。

前項の新冠位制定が天智十年正月六日条であれば、

こちらも天智十年条が正しいことになる。

【5年を隔てた記事】

天智四年八月条

長門国に築城。 中略 筑紫国に大野城と椽城を築く。

天智九年二月条

長門に一城・筑紫に二城築く。

上記は5年を隔てた同一記事で築城という内容から

まちがいなく重複していると考えられる。

もし白村江敗戦後の対策としての築城が史実とするならば

天智四年(665)までに三城を築く難しいのではないか。

天智九年二月条が正しい記載と思われる。

【3年を隔てた記事】

天智七年七月条

以栗前王拜筑紫率。

天智十年六月是月条

以栗隈王爲筑紫率。

筑紫率の任官記事はこの他にも八年正月条に

「蘇我赤兄臣を筑紫率に任命する。」がある。

天武紀上元年六月二十六日是時条に「筑紫大宰栗隈王」とあるので、

栗隈王は蘇我赤兄の後任として十年六月に筑紫率に任官したとするのが順当。

【2年を隔てた記事】

天智八年是歳条

大唐遣郭務悰等二千餘人を遣わす。

天智十年十一月十日条

唐国の使人郭務悰等六百人・送使沙宅孫登等一千四百人、

合わせて二千人が船四十七隻に乗って、比智嶋に停泊。

八年是歳条は上記の他にも

白村江の戦以降の唐との交渉をいろいろ述べている。

河內直鯨を大使とする遣唐使を派遣し戦後処理を行い、

百済から避難してきた人々700人余りを近江国に居住させたりした。

唐は郭務悰をトップとする2000人(おそらく駐留軍か)を送り込んできた。

十年十一月十日条には、

唐の一行がやって来た時の詳細を述べているように読むことができる。

唐の軍隊が郭務悰をトップに六百人、

沙宅(佐平?)孫登等を送使とした千四百人、

合わせて二千人が筑紫に向かうが戦うつもりではないことを

対馬国司が筑紫大宰府に報告してきたことが記されている。

このふたつの記事に関してはいろいろな見方をすることができそうだが、

白村江の戦が倭国に与えた影響を考えるときに

非常に重要なことが含まれている。

どちらの記事にも郭無悰がいて、2000人の来朝が記されているが、

来朝目的が異なっている。

二つの記事の間に、

韓半島では羅唐戦争(670~676)が勃発していることを

考慮しなければならないだろう。

同盟を結んでいた唐と新羅が670年に戦争を始めたのだ。

天智八年に郭務悰が二千人の軍隊を率いて筑紫にきた時には、

唐は倭国を百済・高句麗と同じように

羈縻政策で支配することをもくろんでいたのだろう。

しかし新羅との関係が急に悪化すると

日本列島にかかわっている余裕がなくなり、

倭国を敵に回さぬように政策を転換したと考えられる。

十年に白村江の戦でとらえた倭国の捕虜を返還したのも

その一環であったと思われる。

日本書紀の2年を隔てた記事はそれぞれが独立した事象であり

東アジア情勢の大きな変換点をあらわしているといえるだろう。

【考察】

天智天皇紀に重複記事が多いのは、

何らかの理由で天智が称制を行わなければならなかったことも

さることながら、

壬申の乱によって近江宮が滅亡して史料が紛失したことも

影響しているのだろう。

そのこととは別になぜ天智が即位する前に

「称制」を行わなければならなかったのか、

検討しなければならないテーマだと思う。