【修史作業の歴史】
応神記までに記されている事柄を
チェンバレンは史書としてはかなり怪しい内容だと疑ってかかっている。
修飾されて物語化したものが多くあるために
どこまでを信用していいのか戸惑っている。
仁徳記までは神秘的な出来事も多く含まれるが、
履中記以降になると内容が一変する。
この変化についてチェンバレンは、
『日本書紀』履中四年八月条の
「始めて諸国に国史を置く。言事を記して、四方の志を達す。」
との一致を指摘している。
五世紀の初めころからということになるが、
古事記の内容が
「奇妙な描写も散見するが、信頼できる内容として読むことができる。」
と評価している。
履中記の後顕宗記まで
諸国で記された記録に基づく内容が記録されているが、
仁賢記以降は系譜のみの記述となっている。
【考察】
五世紀以降、諸国において修史作業が行われたとすると、
どのような文体が用いられたのだろうか。
漢文が主体で固有名詞には漢字の音読みが当てられていたことは
「稲荷山鉄剣銘文」を見ればわかるが、
系譜を何とか残せても説話をどう残したのかは不明である。
渡来人が中心となって漢文を用いたと考えるのが妥当であろう。
となると渡来人が多く住んでいる地域の記録が多く残っていることになる。
記・紀に残る説話などから、
息長氏や蘇我氏が早くから修史事業を行っていたのではないか、
と推測されるが、
彼らが本拠地としていたエリアの推移などがわかれば
記・紀が隠そうとしている史実が少しわかってくるかもしれない。