【山幸彦の結婚から神武の誕生まで】

山幸彦は綿津見神の宮で受け取ったまじないの道具を用いて、

海彦を降参させる。

結ばれた豊玉毘売は、

天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(神武天皇の父)を産む。

出産時に八尋和邇に化身した姿をみられた豊玉毘売は、

恥じて海中に帰り子供を養育するために妹の玉依毘売を派遣した。

山幸彦=天津日高日子穗穗手見命は580歳で死去し、

「高千穗山之西」に葬られた。

この物語は鵜葺草葺不合命が養育に当たった叔母玉依毘売を娶り、

「五瀬命、次稻氷命、次御毛沼命

次若御毛沼命、亦名豐御毛沼命、亦名神倭伊波禮毘古命」

の四人の男児が生まれて、

次男の稻氷命と三男の御毛沼命が他界したことを記して完了している。

山の神(大山津見神)の血を引く山幸彦と、

海の神(綿津見神)の血を引く豊玉毘売の間に

鵜葺草葺不合命が生まれて、

鵜葺草葺不合命が叔母玉依毘売との近親異世代婚によって、

初代天皇となる神武天皇が誕生した記事によって神代記は終了する。

【考察】

山幸彦が580歳まで生きたと記されていることを

チェンバレンは古事記が記す「最初の年紀」であると記している。

このことによって暦がない時代の記事に

生物学的に不可能な年紀が記されていることにより、

少なくとも神代記が

史書としての信頼性を満足するものではないことを指摘している。

8世紀に大和朝廷の初代となる文武天皇の

父は天武天皇と持統天皇の間に生まれた草壁皇子、

母は持統天皇の異母妹阿陪皇女(元明天皇)である。

天皇の血脈の正当性を重視する立場の古事記は、

編纂時の元明天皇の先代である文武天皇が、

草壁と元明天皇の異世代婚によって生まれたことを

神武天皇の両親が同じように近親異世代婚だったことを先例として

正当化する意図をもっている。