「聖徳太子」に関して法隆寺3史料がどのようなことを記しているのかを見てみたい。
各史料ごとの内容を簡略に記してみる。
【薬師像光背銘】
丙午(586)年に池辺大宮御宇天皇が罹病した時に、
病気平癒のために寺と薬師像を造ることを願ったが崩御した。
少治田大宮御宇天皇(推古?)と東宮聖徳王は天皇の遺志を引き継いで、
解説:池辺大宮御宇天皇(「用明」?)は自らの病気が治ることを願って
寺と薬師像を作ろうとしたが果たせずに崩御した。
皇位を継承した少治田大宮御宇天皇(「推古」?)と東宮聖徳王(「聖徳太子」)が
前皇の遺志を引き継いで、
丁卯(607)年に法隆寺金堂(?)を建立し薬師像を作成した。
日本書紀には用明紀二年四月条と推古紀十三年、十四年条に
丈六の仏像を作成する記事が記載されている。
用明紀二年四月条には
病にかかった天皇が仏教に頼って病を平癒したい旨を告げると、
物部守屋大連は国神をないがしろにすると反発し、
蘇我馬子宿禰大臣は詔勅に従うことにしたことにより、
崇仏・排仏の蘇我・物部戦争に発展する。
天皇が臨終する間際に鞍部多須奈が丈六の仏像と寺を作ることを約束する。
用明紀の最後に、
その仏像が南淵の坂田寺の木丈六佛像・挾侍菩薩のことであると記されている。
法隆寺薬師像光背銘の内容と酷似するが薬師像は金銅製なので同一ではない。
推古紀十三年条には、
「天皇、皇太子大臣及諸王諸臣に詔し、共同して誓願を発し、
始めて造銅繡の丈六佛像を各一軀造る。鞍作鳥に命じて、造佛之工とする。
是の時、高麗國大興王は、日本國天皇が佛像をつくることを聞いて、
黃金三百兩を貢上してきた。」
とあり、
翌十四年四月条に
完成した丈六像を元興寺の金堂に安置するいきさつが記されている。