【「聖徳太子」没後1400年】
「聖徳太子」が薨去したのは日本書紀では推古二十九年(621)、
薬師像光背銘・天寿国繍帳銘では西暦に直すと622年と記されている。
昨年から没後1400年ということで、
NHKをはじめとするメディアなどでいろいろな特集が組まれている。
【一貫性がない「聖徳太子」史料】
ところがその存在については確かな定説がないばかりか、
存在そのものがなかったとする見解もある。(大山誠一『〈聖徳太子〉の誕生』など)
なぜそのようなことになったかというと、
「聖徳太子」について記された史料の記載に一貫性がないことを
原因として挙げることができる。
古事記には、
用明天皇記の后・皇子女系譜の中に「上宮乃厩戸豊聴耳命」と出てくるだけである。
本来であれば「厩戸王」と記載されるところを
「上宮」、「豊聴耳命」などの尊称が加えられているのは、
古事記編纂者の中に
他の皇子とは異なった表現を必要とする動機があったことを示している。
日本書紀には、
用明紀では「馬宿皇子」の他「豊耳聡聖徳」や「豊聡耳法大王」、
推古紀に「厩戸豊聡耳皇子命」・「上宮太子」(本文中実名以外は「皇太子」)
と表記されている。
法隆寺系史料の中では、
薬師像光背銘に「東宮聖徳王」、
釈迦三尊像光背銘に「上宮法皇」、
天寿国繍帳銘に「等巳刀弥々乃弥己等」・「太子」
と記される。
このように史料によって呼称が少しずつではあるが異なっている。
現在一般に使われている「聖徳太子」は、
天平勝宝三年(751)に記された『懐風藻』序が初出と言われ、
その後平安時代にかけて一般的に使用されるようになり現在に至っている。