【「音当て」中心主義の因襲について(その一)】
「邪馬台国」研究氏は「音当て」中心主義の歴史だった、と古田氏は指摘している。
松下見林:「邪馬臺」=「大和」
新井白石:「邪馬臺」=「山門」
星野恒、白鳥庫吉、橋本増吉、榎一雄、井上光貞、江上波夫、田中卓、佐伯有清等は
新井白石の「邪馬臺」=「山門」を支持。
古田氏はこれらのそうそうたる大家たちの「音当て」を“非論理の手法”と批判している。
【「音当て」中心主義の因襲について(その二)】
宮崎康平氏「まぼろしの邪馬台国」では、
倭人伝に国名だけ記された「二十一国の比定地をきめ、
その国々にとりかこまれた中央部に“邪馬台=山田”の地を求められたのであった。」
(古田氏、前掲書)
明治四十三年、内藤湖南は「邪馬台=大和」を決めて、
次いで二十一国の比定地を近畿中心の東西に求めた。
国名だけではなく人名にも「音当て」は用いられた。
内藤湖南は卑弥呼を「ヒメコ」と読み、「倭姫命(ヤマトヒメノミコト)」に当てた。
内藤湖南の手法は埼玉県の稲荷山鉄剣の解読に再現された。
「獲加多支鹵」の五文字を切り取って「ワカタケル」と読み、記・紀の雄略天皇に当てた。
鉄剣には獲加多支鹵大王の宮居は「斯鬼宮」と記されているが、
雄略の宮は「長谷の朝倉宮」(記)「泊瀬の朝倉宮」(紀)であって当てはまらない
(以上は古田氏、前掲書より)にもかかわらず、
「長谷」と「磯城」は近くだからよいだろうということで一歩も譲らずに、
学界の定説にしてしまっている。
そればかりではなく6世紀初頭の大王が雄略だから、
倭の五王の「武」は雄略で確定したとして古代史学会に共同幻想を生むことになる。
ここまでくると古田氏でなくとも古代史学会の態度が学問的ではないと批判したくなる。
稲荷山鉄剣の「獲加多支鹵大王」=「雄略天皇」の強引な比定について古田氏は、
「明治の湖南の“音当て”中心主義の手法は、一九八〇年代を前にして、
フランケンシュタインのように復活したのである。」
と学会を妖怪扱いしている。