【「綾布墨書」】
シンポジウムに参加した福宿孝夫氏は、
神門神社に保存されていた神宝「綾布墨書」の解読から
百済王を突き止めようとしている。
「綾布墨書」は縦20cm×横25cmで、
筆書きの文字が16行149文字全て百済文字で書かれているという。
表題は「記国号」。国の布令(ふれ)の文書で王城の長官への布告文である。
文書の解読は割愛するが、
百済武王(在位:600~640)が没した年に即位した義慈王(在位:640~660)が
倭国に人質となっている皇子の豊璋に宛てたものであろうと推測している。

【豊璋から絲王、禎嘉王に継承された「綾布墨書」】
その後百済は660年に新羅・唐連合軍の攻撃によって滅亡することになるが、
「綾布墨書」は豊璋からその子である絲王に遺品として継承され、
絲王の孫である禎嘉王まで伝わり、南郷村に亡命した禎嘉王が持参してきた。

【奈良朝に二系統いた百済王族と百済大乱】
福宿氏によると、奈良朝には百済王族は2系統いたという。
日本書紀は豊璋の弟禅広王子が日本に残り、
持統王朝で「百済王氏」を名乗ることを認められたと記す。
豊璋は百済に国家再興のためにもどったが、
羅・唐軍に再度攻撃されて高句麗に逃亡した。
福宿氏は豊璋の子の絲王も倭国に身を寄せたが無位無官の平民扱いであり、
聖武天皇の時に禎嘉は官位職を得たが、
既に高位を獲得している禅広系の「百済王氏」から
国を裏切った豊璋の子孫として排斥される騒動が起きた、
これが「比木大明神縁起」に記された「百済の大乱」であるとしている。

【禎嘉王は豊璋の子孫だった】
つまり天平宝字二年(758年)に日向国に亡命してきた「百済王」は、
奈良朝に仕官していた百済王族二系統のうちの
豊璋の子孫たちであるとするのが福宿説である。