【丸谷才一、山崎正和「雑談 歴史と人物」(昭和51年、中央公論社)】
 
 昨日まで5回に分けて梅原猛「新哲学創造の理念」について書いた。今日はひと段落したのでちょっと気分を変えて歴史から離れてみよう。
 亡き父の本棚から丸谷才一、山崎正和「雑談 歴史と人物」を見つけたので巻頭の「鴎外と山頭火のあいだ」を読んだ。この対談は昭和48年から昭和49年にかけて雑誌「歴史と人物に掲載されたものと単行本として刊行された。ちょうど私が学校を卒業する頃のことだ。不況の時代、個性が埋没している時代と書いてある。第1次オイルショックで大騒ぎしていた頃で、70年安保闘争、大阪万博、札幌オリンピックが終わって多くの人がうまく目標を見つけることができないでいた時代だった。前後してわれらがヒーロー長嶋茂雄が「巨人軍は永遠に不滅です」と強引に言い切って引退してしまう。目標も英雄も同時に失ってしまった。
 没個性のこの時代に世の中が個性のはっきりした人間を探すように芸術家(ゴヤ、シューベルトなど)の伝記が映画化された。その中に脚光を浴びた一人に種田山頭火がいた。山頭火はアル中、それも他人にタカって飲むアル中だった。さらに山頭火は自分が捨てた子供に援助を受けていた。「雨ふるふるさとははだしであるく」と土にべたつきながら生きた山頭火はヒッピーがもてはやされたこの時代に注目されて日本的ヒッピー現象にぴったりはまった。
 一方山頭火とは対照的な意味で注目されたのが森鴎外。鴎外は「なかじきり}の中で、「自分は終生ディレッタントで、哲学をやっても哲学者にならず、歴史をやっても歴史家にならず、小説を書いても小説家にならず、すべて仕事との関わりは偶然である。」と言っていたらしい。ミッシェル・ラゴンという美術史家が「バロックは自分が何をしたいかわからない精神である」と言ったらしい。バロックの例としてガウディのサクラダ・ファミリアをあげる。それは螺旋形の塔をもっていて上にも登りたい、横にも行きたい、中心に近づきたいし遠ざかりたいと矛盾した衝動を表していると。鴎外も同様な意味でバロック的人間だったのだろう。日本のバロック的人間として鴎外のほかに近松門左衛門、折口信夫、吉田兼好を挙げている。共通点は古今東西のことに好奇心を持ってどんどん仕事をする人たちでもある。
 その二つのタイプを紹介した後、丸谷は次のようにまとめている。「日本人は潜在的にバロック型なんでしょうが、今まではそういう潜在的バロック性を隠そうとばかりしていて、年とって隠退してからでないと口に出せなかったようなところがあったのじゃないか。これからはタブーのようなものはかなり解かれてくるんじゃないかな。」
鋭い指摘だとは感じるが、40年近くたった現在でも残念ながらまだまだタブーは解けていないようだ。