追悼 最高のベーシストであり、僕の恩人。ルイス・ジョンソン! | ノーナ・リーヴス オフィシャルブログ「LIFE」Powered by Ameba

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西寺郷太・奥田健介・小松シゲル NONA REEVES

★座右の銘など、あなたの好きな言葉はありますか?

BOY, BELIEVE YOURSELF.





 大学時代、ファンク・バンド、ブラザーズ・ジョンソンのメンバーで、マイケル・ジャクソンの《オフ・ザ・ウォール》《スリラー》期を支えたベーシスト、ルイス・ジョンソンのライヴを帰省していた故郷・京都で観た時、終演後のルイスが僕に投げかけてくれた言葉です。

 ルイスと言えば、「チョッパー」「スラップ」と呼ばれる弦を指で「叩き、弾(はじ)く」ファンキーで革命的なベース奏法で一世を風靡したトップ・ミュージシャン。そんな彼のエキサイティングなプレイを至近距離で体感しただけでも、その夜の僕は大満足でした。
 するとステージ終了後、ルイスがフロアに降りて来て、残っていた観客とフレンドリーに会話をしはじめたんです。僕はここぞ、とばかりに「僕は郷太と言います。《オフ・ザ・ウォール》などでの、あなたのベースが大好きで、そこからポップ・ミュージックの魅力を知りました。本当に影響を受けています。プロのミュージシャン志望ですが、実は今は、まったく理解してもらえるパートナーもおらず、バンドもうまくいってないんで少し悩んでいました。でも、今日のステージを観て刺激を受けました!ありがとうございます!」と話しかけてみました。

 するとルイスが、僕の目をじっと見てこう言ったんです。
 「70年代中盤まで、俺がベースの弦を指で弾くと『ウルサい』とか、『そんなのはベースじゃない』とバンドを首にされたり、批判されたりしていたんだ。常にだよ。当時のメンバーには『目立ちたがり』だとか、『ノイズ』だ、と言われ喧嘩になった。ほとんどすべての人間はこの奏法をけなしていたんだ。ただし、俺はやめなかった。かっこいいと信じてたんだ。ラリー・グラハムと俺くらいじゃないかな。すると、どうだ。ある時期から、これはファンキーだ、踊れる、と評価が一変したんだ。流行し始めると、ある時まで俺を否定して、馬鹿にしていた連中が、『教えてくれよ、どうやって弾いているんだい』と行列を作りはじめた。そんなもんなんだ。だから、君も自分の好きな音楽があるなら、貫くべきだよ。頑張って欲しいな」

 ルイスは勢い良く話し終わると、大きな手を差し出し、握手を求めてくれました。そして、最後に一言「ボーイ、ビリーヴ・ユアセルフ!」。

 当時僕は19歳。この言葉とアドヴァイスが、どれほどの救いになったか・・・。それも相手は、〈ビリー・ジーン〉から〈ウィ・アー・ザ・ワールド〉まで、「クインシー人脈」の最重要人物として、僕の「音楽観」に影響を与えたルイス・ジョンソンです。彼だって、ステージを終えた後で疲れていただろうし、ファンも沢山いました。もっと軽く流してもいいはずなのに、真剣に僕の言葉を受け止め、熱い返答をくれたことに本当に感激したんです。

 それ以降、僕は「座右の銘」をアンケートやインタヴューなどで答えなければいけない時には、エピソードとともにこの「ボーイ、ビリーヴ・ユアセルフ」について書くことにしています。

2012-01-12 15:24:44

西寺郷太




これは2012年に答えたインタビューの再録(原文ママ)です。ルイス・ジョンソンさんは、2015年5月21日、満60歳でお亡くなりになりました。

僕が驚いたのは、僕が彼に京都で話しかけたのは93年の夏、ということは彼がまだその時38歳だった、ということです。

二十歳でクインシー・ジョーンズに見いだされ、兄弟グループ「ブラザーズ・ジョンソン」の成功は二十代前半。二十代後半からはナンバーワン・セッションマンとして活躍していたルイス。
《オフ・ザ・ウォール》は23~4歳、〈ビリー・ジーン〉で27歳、〈ウィ・アー・ザ・ワールド〉の時ですら30歳だった彼。

あの時の僕は、そのキャリアもあってとんでもない大人だと思って、質問していました。
ライヴ終了後に、今の自分よりも全然若いルイスが、単なる一ファンの僕の、ありがちな悩みに誠意を持って答えてくれたこと、それを思い出すと、優しさに本当に泣きそうになります。
感謝しています。

子供の頃から、人生で最も聴いたベーシストでした。いつかノーナ・リーヴスのレコーディングでベースをお願い出来る日が来るんじゃないか、と。そう思っていました。

ありがとうございました。

西寺郷太
2015年5月27日